【トッキュウジャー】21~25話
第21駅「花嫁は逃走中」
グリッタは偶然拾ったシュバルツのハンカチを後生大切に心のよすがとしているが、シュバルツにとってそのハンカチはもう不要な、捨てるべきものであったことが思い出される。
そういえば明くんは日傘もなしに日中外仕事をしている。レインボーラインに与したことで光への耐性が付いたのかもしれぬ。人間態になることで光に強くなるのか……等も考えたが、よく考えたら闇の皇帝おんみずからが人間態のまま光にやられている描写があった。姿かたちはあまり関係なさそうだ。
幹部たちや怪人たちの容姿を見るに、シャドーラインの者にとっては怪人態の方が自然な姿であると推測される。わざわざ好き好んで人間の姿を取る皇帝と明は、ともに光に憧れているという共通点がある。光の下で活動するために、形から入ったということだろうか。
グリッタも母の手から離れ侵略活動に従事していたら、そのうち人間としての姿を手に入れていたかもしれない。光の下でも自由に動ける身体を得た彼女の姿は喜びに満ち溢れていた。
一方的に守られるだけではなく、相手を思いやり、支えることもできるカグラの芯の強さ。それぞれの長所が短所を補い合って、列車は前に進んでいく。
単独変形での「烈車合体!」の名乗りと言い、明くんは5人のすることを真似しがちなきらいがある。不愛想で大人っぽいくせにそういう児戯に類する行為をしばしば繰り返すところがたまらなく良い。
第22駅「女帝の誕生」
ノア夫人が未亡人だとしたらあの黒衣は喪服の類なのかもしれぬ。妖艶。
ビルドダイオーは明くん言うところの「調教」の結果、一つのつり革に一動作が紐づけられているようだ。つり革が多すぎて書かないと覚えきれないのはご愛敬。
きっかけによる想起並びに当時の状況の追体験により、5人は故郷の事を思い出す。だがその光景は、5人が故郷を失った瞬間の記憶でもあった。ゴールにたどり着きさえすれば幸せな日常が待っていると思っていたのに、この展開はつらい。
第23駅「手と手をつないで」
明くん、有能。保線作業のみならず烈車の応急処置もできる万能ぶり。ビルドレッシャーを手なずけただけのことはある。……皆の車両に謎のつり革が爆誕していないことを祈りつつ。
失くして初めて大切さがわかる……とはよく言うが、失くしてしまった大切なものに気が付いた瞬間の喪失感は確かに大きいものだ。かつて手にしていた物の輪郭がくっきりと見えたからこそ、余計に惜しくなり、寂しさが増す。でも自分はひとりではない。同じ思いを抱えた仲間が傍にいてくれるから、また手をつないで歩きだすことができる。
チェンジャーはあくまでスマホ風のアイテムであり、スマホそのものではないのである。Wi-Fiなど飛んでいないタイプの車両の可能性は大いにある。
いつも死に場所死に場所と言ってはいるものの、別に自分から死のうとしているわけでもない。明くんにとってレインボーラインでの日々は贖罪であると同時に、余生のようなものでもあるのかもしれない。空の向こうに虹を見つけ、シャドーラインを出奔したときに、彼のザラムとしての第一の生は終わったのだ。
ゼットを食らったはずのグリッタが、そのゼットに食い返される。かくも皇帝の力は強く、闇は深い。
第24駅「分岐点を越えて」
ゼットがグリッタの腹中で虎視眈々と復活のタイミングを狙っていたように、グリッタもゼットの中にまだ存在している。潜んでいるのか、生かされているのか。
ネロ男爵と明くん、実は仲良かった疑惑。喧嘩友達か?
イマジネーションだけが動力源なのかと思っていたがそんなこともなかった。イマジネーションはあくまで媒介であり、戦うための力自体はレインボーライン謹製のようだ。
第25駅「おとぎ話が飛び出して」
「純粋」であるということは、不純物が混じっていないということだ。桃太郎やシンデレラはその物語の中のみに存在しており、物語上で与えられた以上の情報は持っていない。言い換えれば、物語の世界が彼らの世界のすべてだ。多少の地域差はあれど、シンプルな一つの概念として、核となる「純粋」なイメージを抽出することができる。
対してリョーナイトはトカッチが自らの兄をモデルに作り上げたヒーローだ。リョーナイトとリョウ兄ちゃんは不可分に結びついている。リョウ兄ちゃんという人間の持つ莫大な情報量が、リョーナイトのバックボーンには確実に存在している。いくらいい兄とて生身の人間である以上、ヒーローらしからぬいろいろな一面を持っていることだろう。リョーナイトの物語はトカッチの中で深みを帯び、複雑化していく。純粋なだけではなく、様々な雑味が混じって、トカッチだけのリョーナイトが構成されているのだ。
日々の寝起きに操縦席を使っている疑惑。ドリルレッシャーの内部は綺麗なものだったし、ビルドレッシャーを手に入れる前は野宿でもしていたのだろうか。