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「正しい」ことが「正解」ではない
『正しい』ことがいつだって『正解』だと
信じて疑わなかった日々が覆される。
仕事上、精神疾患の方のお話を聞いたり
生活を立て直す場面をお手伝いするようなことが多いのだが
「それはどうなんだろう…」と思うことは多々あっても
基本はその場では伝えないようにしている。
そして、口に出すときは上手く言語変換して
伝えることが出来ていると自負している。
でも、それはきっと『仕事』だから出来ている。
悪く言えば、自分から『距離のある』人だからだと思った。
友人(以下S)とわたしは、学生時代からの友人だ。
途中、期間は空いたが
子ども同士も同じ年(同じ境遇が多い笑)という事もあり
10年ほど前から、かなり濃密な友人関係を築いているであろう一人だ。
Sのオットはわたしのオットと気質がよく似ていて
よく、辛い時はお互いに励まし合った。
わたしは、自己紹介でも伝えた通り
発達障害の子供たちが通う
『児童発達支援』で児童支援員をしていた経歴もあり
子供たちそれぞれの特性について話をする機会もあった。
Sの子供たちは4人だが
そのうち2人は、発達障害の特性があり
そのような事業所に通っていた経緯もある。
わたしは、Sとの関係性を『他人事』と受け取る事が出来ず
いつも、わたしの思う『正解』をずけずけと話す。
それをいつもSは時には真剣に、時には笑って聞いていた。
わたしはSが
家族のわがままに振り回される原因も
追いつめられる原因も
S自身にもあると、今でも思っている。
勝負するときに逃げたからでしょ。
いつも、その場しのぎしかしてこなかったからではないのか?
正解はあるのに、なぜ同じループで苦しむのか?
わたしはSを責めたい気持ちはないのに、
わたしの『正解』を言葉にすると傷つけてしまうのではないか?
わたしの中でも
いつもそのループにはまっている。
ふと、昔わたしが
オットのことで悩み・苦しいときに
すごく親身になり助けてくれた友人がいたことを思い出した。
その友人はいつも正しく、いつもまっすぐだった。
それがすごくまぶしくて、かっこよく思っていた。
距離間が近く親身な故、
わたしのグレーにしておきたい領域も
白か黒にしないと納得しない様子だったことを思い出した。
それが、いつからかわたしの中で苦しくなっていた。
同時に、友人も
グレーなまま、負のループを回るわたしを
受け入れられなくなったのだと思う。
ある日、突然の絶好宣言を受けた。
わたしは不思議と素直に受け入れた。
嫌な感情もなく、ただただ
『今までありがとう』と思ったのを思い出した。
この時のわたしは
『正しい』方向へ導いてほしかったわけではないのだと思う。
ただ、聞いてほしかった。
ただ、寄り添ってほしかった。
それだけでよかった。
むしろ、それが欲しかったのだと。
今わたしは、その友人と同じループを
Sにたどっているのかもしれない。
もちろん、解決にはならない。
でも、Sはわたしに解決してほしいわけではないのだと思う。
ただ、聞くだけ。
ただ、寄り添い同調する。
以前友人がわたしにくれた一生懸命な『正しい』が
間違っているとは思わない。
むしろ、
苦しくも嬉しくて、ありがたかったのも覚えている。
でも、『その時』ではなかっただけだと。
「Offical髭男dism」の「Subtitle」という歌の歌詞の中に
「正しさよりも優しさがほしい」
という歌詞がある。
まさにその通りなのではないかと思った。
わたしの中の『正しさ』よりも
Sにとって、いま一番欲しい『優しさ』を
わたしはあげたいと思う。