神を信じることについて
僕が神を信じていると言うと、なんだか、僕を盲目であるかのように思い、目を覚まして欲しいとでも思っていそうな視線を感じることがある。(視線を感じるどころか言われることもあった)
「神は死んだ」という有名な言葉もある。
そんなひとがいたら、僕はただ、「浅いな」と思う。
その人には神が見えていないとか、そういう意味ではない。
そういう人は、神が存在であるか、そうでないか。神は生きているのか、死んだのか。そういう角度からでしか物事を見ない。
神がいると「信じ」、己の全存在をかけて、それが存在であることにベットするということそのもの。ただそういう視線を投げかけてくるひとは、その時点から物を考えることができていない。実態としては、神を信じるとはそういうことだ。神を実際に目にしたなんて人は極小数だし、それが幻覚でない証拠を示すことはできない。天にいる神をはっきりと見ない。見たつもりにならない。信仰者は、したから天を見上げる。神が生きているのか、死んだのか、そんなことを考える以前の段階のただ中で、身の程を弁え、もがいている。神が存在するのか、しないのか、その結論をインスタントに求めるのは拙いとしか言いようがない。皮肉にも、ある意味、そういう人たちは、信者よりも、神のことをリアルなものとして考えていることもあるのかもしれない。
完全に信じることができれば、既に山の頂だ。それはひとつの物事の終わりだ。その時僕はパラダイスにいるだろう。「信仰」が完成されるまでの道程ーー僕にとってそれはイエス・キリストにあるーーに全てがある。あのイエスの弟子達でさえ、山を動かすほどの信仰があったとはいえない。
なぜそうなってしまうのか。それは、まさに羊のごとく、非常に近視眼的な視界からのみ見えるものがあるのかもしれない、とか、そういうことを考えられないから。(物事を遠くからばかり見る者)そのための認識の地平が貧しいからだ。そうでなければ、なぜ、判断を留保せずに、「目を覚まして欲しい」なんて真剣に思っちゃうのだろうか。
今回その認識の欠如の一例として、僕は「神を信ずるということの実態」についてほんの少し説明した。お役に立てたのなら幸いである。