美しい日本語というものがある~三島由紀夫『潮騒』~
遠くまでつづく海のような青色に、夕日のような朱色で、タイトルと筆名が、漢字とローマ字で書かれただけの、この二百頁程度の薄い文庫本が、私にとっては懐かしく思い出されます。
私は決して文学少年ではなく、二十歳になるまでに読んだ文学小説と呼べるものは、太宰の『人間失格』と武者小路実篤の『友情』だけでした。
しかもこれを読もうと思った動機も不純で、前者はメディアで話題になっていたからで、後者は気になっていた女子が好きな本に挙げていたからでした。
『友情』は何だか消化不良で、むしろこのラストから小説が始まらないといけないのではないか、と思い、いまいち面白く感じませんでした。
その点、『人間失格』は十代の自分としても「面白さ」を感じました。
しかし、その「面白さ」に私は酔えませんでした。
それは何だか、アルコールが入っている酒なら何でもいいよ、という人が飲むような、安酒に思えたのです。
その快楽に誘う宗教勧誘のような噓臭さに、私のまだ鋭かった嗅覚が嗅ぎつけたようなのでありました。
それから私は文学に関わることもなく二十代後半になり、人生の諸問題を片づけるべく調べものをしていて偶然三島由紀夫のインタビュー動画を見つけました。
彼の話す言葉は美しかった。
その理路整然とした語り口も、ナルシシズム的な所作も、私を魅しました。
そして彼の著作を読もうと、インターネットで三島の初心者向けの本を調べ、古本屋でこの『潮騒』の文庫本を買ったのでした。
この小説を読んだ時の私の感想は、「この世に、美しい日本語というものが存在するんだ」ということでした。
それまで私は、文章の良し悪しなどわからなかったし、そんなものが存在することも知りませんでした。
私はこの『潮騒』を時間があれば読みました。ただ断片的に、今日はここを読もう、この頁を読もう、とその言葉の音楽を自分のなかに取り込もうとしました。
『潮騒』の本文をすべて平仮名で書き出して、その音の秘密を暴こうとして断念したりもしました。
私は三十代になり、自分で小説を書くようになりました。
小難しい本や、文学小説も読むようになりました。
私は文学少年でも、文学青年でもなく、こうして文学中年になったのであります。