読書に対する姿勢を考えさせられた本【徒然読書51】
本を本当に読み切った、自分の糧にした。
そういう本はなかなかないと思います。
速読法とかがよく売られていますけれど、その逆の熟読法ももっとクローズアップされてもいい。
ひとつひとつの文章に自分の知識や経験を総動員して「読める」ようになりたい。
この本は速読などとても出来ない。
そう思わされた本です。
著者はもう30年ほど前に亡くなられていますけれど、経済学と社会科学を専門にされた方です。
1985年に発売された本なのに、今にも響いてくる。
もう古典の入口に位置している本といっても間違いないと感じています。
1. 本を「読む」とは。
「読む」には情報として読む、と古典として読む、があります。
情報として読むことは、そのままの通り情報を求めて必要なところだけを読む。
古典として読むことは、古くから知っていたはずのことがにわかに新鮮になってくること。
著者は「概念装置」に多く言及しています。
「概念装置」とは何かと言うと、ものを見るための装置。
表面的ではなく、原理、抽象的なものを捉えること。
古典として読む、は「概念装置」の獲得に欠かせないのです。
そして、いい本とは何かというと、「ぶつかり稽古」を例えにしています。
そして、本当にいいものに接した場合、そう簡単に感想が出るものでは無いと言い切っています。
感想というのは「全体のなかで要するに何が自分に面白かったか」の焦点づくり。
ただ写したりするんじゃなくて、何が響いたのかどうして面白いのかを掘り下げていく。
それが感想なのかもしれません。
これが本来あるべき本を読む姿勢なのです。
1回だけ読んで理解するというのは到底ありえない。
何度も読んで咀嚼して追体験して自分の持てる力を総動員してぶつかる。
そうして読んだのなら自信にもなるし一回り成長するかもしれませんね。
2. 本当の「勉強」とは。
そして著者は「勉強」についても触れています。
勉強=怠け者根性を捨てて、味わうべきを味わう
自分の視野の狭さや無知を自覚した上で、既製の概念装置として獲得してこそ独自の学問が生まれる。
ソクラテスの無知の知や日本伝統芸能の守破離にも繋がるのではないでしょうか。
「概念装置」とは自分の眼を補佐する認識手段。
目的では無いのです。
複数の概念装置を理解しそれをもって学問に向き合う。
誰かの言葉をそのままなぞるのではない。
暗記とか表面的とか画一的とか、そういうのを超越していると思います。
本を読む姿勢、どう学問に向き合うのか、を焦点にしてまとめましたけれど、対話にも言えることだと感じました。
私たちは見て見ぬふり、ちょっとした違和感を握りつぶしている。
言葉にしにくいものこそ向き合うべきではないか?
そう考えさせられました。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
脳みそに汗をかきたい方にはおすすめです!