明と琉球の貿易について②【温故知新PJ⑩】
前回は、明の海禁政策の背景について書きました。
今回から明と琉球の関係に焦点をあてていきます。
琉明関係の初見としては1372年とされ、南島路による日中往来が活発化していました。
南島路は、奄美半島を経由する経路です。
朝鮮半島を経由する北路とは反対のルートですね。
1380年代には琉球は明に入貢しており、明による冊封を受けていました。
そのころ明の琉球に対する優遇政策が見られるようになります。
例えば、勘合なしで貿易できたり、特例として指定された港意外の入港を認められました。
このような優遇対策の理由としては倭寇対策の一環とする説や、貿易禁止により活動の場を奪われた海商勢力の受け皿としたという説があります。
ともかくもこうして15世紀ごろから琉球は、東南アジア・明・日本の物産の集積地としてアジアの交易センター化していくのです。
琉球は、その朝貢を通して当時東アジアで競争力の強かった中国商品を大量に確保することができ、それを東南アジア諸国などに売るとともに各国の特産物を手に入れ、明にまた輸出していました。
いわゆる中継貿易です。
中継貿易によって、琉球は東アジアの海上貿易を支配するようになります。
実際明代において各国の進貢回数を比較すると、琉球は一番多い171回であり、二番目に多い安南でも89回でした。
二倍近くの差がありますね。
また、中国人ネットワークを利用することができたのも琉球が海上貿易をスムーズに進めることができた一因でした。
琉球は海禁政策を侵して移住してきた中国人が、公的に貿易を行うことが出来る場でもありました。
東南アジア各地の貿易港にも多数の中国人居留区があり、漢文や中国語で交流することができるネットワークが存在していたことが、琉球―東南アジアの貿易基盤となっていました。
1542年と1543年にポルトガル人が琉球に来航しており、その翌年に種子島に鉄砲が伝えられたことを考えると、琉球も世界的な潮流の中に存在していたことがわかります。
しかしながらそうした繁栄も長くは続きませんでした。
15世紀中ごろ、明は対外交通縮減策に転じ琉球への優遇を削減したのです。
さらに博多や対馬の倭人勢力が日本朝鮮との往来から琉球船をほぼ締め出したことや、偽使の出現や福建での殺害略奪といった琉球船の海賊行為などが見られるようになります。
これを受け、明は1474年に二年一貢に下げるなどの制裁が行われました。
明の状況からしても、海禁政策は次第に密貿易の顕在化を誘導し、1570年代には東アジアや東南アジア世界が巨大な私貿易・民間貿易のための空間に変容していくのです。
このように倭寇的勢力の脅威や南海貿易の衰退により1570年を最後に琉球は東アジアの表舞台から姿を消していきました。
海上交通には、大陸国との関係に大きく影響されます。
琉球の栄枯盛衰はその一例でしょう。
そもそも、国家として確立していなかった琉球が何故そこまで明から注目されたのかはまだはっきりとしていません。
もしかしたら、国家として未成熟だったからこそ、反乱の恐れもないとみられ、地理的関係から重要視されたのかもしれませんね。
そこに、地政学も絡んできそうです。
明と琉球の貿易については、ここでいったん終わりにします。
次はどんなテーマで書こうかなと構想中です。
次回の温故知新PJも楽しんでいただけたら嬉しいです✨