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「教育者」とは、どういう人だろう。

ここ数年、大学の非常勤の仕事をいくつか受ける機会があって、昨年度からは立教大学で、「都市計画」と「市民参加とまちづくり論」を担当している。

今年2年目、毎週長野から通うのは難しいということを理解していただき、2週間に1度、1回につき3時間(1時間半の授業を2コマ)の授業。2週間のうち1日は、ほぼ朝から晩までキャンパスで過ごすことになる。

「都市計画」では、紀元前3000年くらいから現代に至るまでの都市(人が集って住まう場所)の歴史やその背景、都市計画という概念が登場した近代以降の経緯について時系列で触れていく形式。観光を学ぶ学生さんを対象としているので、日本や世界の都市を訪問したとき、その都市の形態がどの時代の、どのような政治的背景のもとで生まれたのか想像できるようになり、都市の新しい楽しみ方ができるようになればいいと思ってやってきた。

「市民参加とまちづくり」は、行政施策への市民参加のあり方や理論的なこと、もっと幅広い実践としてのまちづくりの可能性について、自分が関わってきた事例をとりながら学生さんと議論形式で取り組んできた。

「市民参加とまちづくり」の方は50人弱の授業だったので、ディスカッションを主体とした授業を心がけてきた。一方で、都市計画論のように200人を超えるような授業はどうしても一方通行にならざるをえず、正直授業をやっている側には大きな手応えがつかみにくい。そういう意味で、市民参加論の方が、楽しく自分らしい授業ができてきたように思う。

まちづくりという言葉を聞くと、どうしても「社会のためにならなければならない(=自分の欲や楽しさは二の次にしないといけない)」とか、「社会に大きな影響のある取り組みをしなければならない」といけないという印象を持つ学生さんが多いし、市民参加という言葉には、お年寄りが地域の行事に参加しているイメージや、イベント的な取り組みとつなげてイメージする学生さんが多い。

でも、僕にとっての市民参加やまちづくりは、このイメージとは全然違って、もっと軽やかなもの。それぞれが楽しみにながら無理なくできること、やりたいことを形にする。その先に社会性がある。それがまちづくりなのだと思う。

だからこそ、この授業では、「自分の「やりたい」「面白そう」から始まるまちづくりもあるんだよ」「若い世代が、行政の取り組みに面白おかしく参加できる可能性だってあるんだよ」ということを、具体的な事例を通じて伝えてきたつもりだ。

そもそも「主体的な参加の引き出し方」とか、「やりたいと思ったことを形にするときに大切にすべきこと」は何も行政やまちづくりの分野に限ったことでなく、サークル活動、学校生活、就職活動などで学生自身が日々悩んでいることでもあるはず。市民参加やまちづくりの領域で活動している人が悩み工夫しながら取り組んでいることは、少しだけ見方を変えてあげれば学生さんにとっても自分ごとになりうるテーマだと思う。

そんな2つの授業の最終授業が7/12にあった。授業の最後に回収した学生のリアクションペーパーは、とても嬉しい言葉が並んでいて、ああ、やってよかったなぁと素直に思えるものだった(リアクションペーパー、先生方はきっとよく見ていると思う)。市民参加は、まちづくりは、プロジェクトは、きっと楽しい。苦しいことも多いけど、結局それがその後の楽しさにつながるのだから総じて楽しいものなのだ。主体的に参加し、自ら「つくる」人が増える社会はきっと楽しいし、授業を通じて、そのきっかけを学生のみなさんに少しでも提供できたならとても嬉しい。

人にきっかけを提供できる教育の仕事は、とてもやりがいがある。でも、生きた言葉を伝えるためには、何より自分自身が生きた事例を作っている主体者である必要があると思うし、その方が性に合っているとも思う。当然うまくいかないことも多いし、自分の未熟さに呆然とすることもある。そういうことも含めて現実だし、その分多くの人に助けられていろいろな事業が成立している。だから終わったあとに「やめられない」と思える嬉しさや達成感、楽しさが待っている。

僕は厳密な研究者にはなれないけれども、授業をしていると、そういう意味で、教育者は向いているのかもしれないと思うことがある。研究者と教育者は異なる存在だと思うが、少なくとも教育者には、常に前線に立って失敗できる現場が必要なのではないだろうか。

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