「大きな物語」から、「大いなる物語」へ。
ちょうど1週間前、11月3日に信濃町で開催予定の『物語と私をめぐる旅』という企画の取材で、四日市にある子供の本の専門店「メリーゴーランド」を訪れる機会があった。
9日に店主の増田さんにインタビューさせていただく予定になっていたのだけれども、その前日にメリーゴーランドの人気企画である「レクチャー」が開催されるということを知って、1日前に四日市入りすることに。
レクチャー会場入り口。メリーゴーランドは、手書きで手作り感のあるポップや看板に溢れて、それがとても心地よかった。
増田さんへのインタビューは8月にオープン予定のウェブ上で発信するのでそちらに譲るとして、今回のレクチャーがあまりにも素晴らしかったので、そのことについて書いてみたいと思う。
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月一程度の頻度で開催されているこの「レクチャー」という企画は、その名の通り、ゲストを招いてレクチャー形式で行われるイベントで、"いま、注目の作家の皆さんに、本を読む、本を作るその冒険と喜びを、語っていただく"(メリーゴーランドウェブサイトから)というもの。その講師陣には、錚々たる作家や詩人、編集者の方々の顔がならんでいる。
それなりに大きな都市であるとはいえ、メリーゴーランドは、市内の中でも少し郊外の無人駅に隣接した場所に立地している。そんなのどかな場所で、これだけの方々の話を生で聴ける贅沢が日常風景としてあるのは、実はとてもすごいことなのだと思う。
今回のレクチャーのゲストは、編集者で作家の松田素子さんという方。大変失礼ながら、松田さんのことはそれまであまり認知したことはなかったのだけれども、昔から好きだった絵本のいくつかが松田さん編集のものだったり、個人的に大きなご縁を感じる方で、そのあり方もとても素敵だった。
そんな松田さんが今回のレクチャーで話してくれたのは、詩人の「まど・みちお」さんについて。2014年に104歳で亡くなったまどさんの、最後の10年間に編集者として伴奏した松田さん。そんな松田さんが語るまどさんの言葉やあり方は本当に感動的だった。
人が誰かの美しさについて語るとき、その言葉の力は驚くほど大きなものになる、そんなことを改めて実感する一時でもあった。
松田さんのレクチャーの後には、本の販売コーナーに人だかりができていた。本を買いたくなるレクチャー、恐れ入りました。
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つい先日、オウム真理教の幹部が一斉に死刑執行になったこととからめて、「終わりなき日常を生きる」こと、という題で文章を書いた。
「終わりなき日常を生きろ」と説いた社会学者の宮台真司はその当時、これからの時代には誰もが目指せる「素晴らしい未来」や「大きな物語」はなくなり、「終わりなき日常」と「小さな物語」だけが存在するようになると予言した(そして、きっとその予言はある意味で正しかったのだと思う)。
確かに、誰もが画一的に目指すべき(だと盲信できた)「大きな物語」は、もうなくなってしまったのかもしれない。その一方で、そういう時代の不安感の中で、新たな「大きな物語」をつくろうとし、それに乗っかって安心感を得ようとする人々が出てくる気持ちもよく理解できる。
そのひとつの帰結が1990年代のオウムであり、今でもそれは形を変えて ー例えば、歪んだナショナリズムを声だかに主張しカタルシスに浸る集団のようにー 変わらず世界中のいたるところで残っている。強くて極端な思想に寄りかかることで、人は容易に安心感と全能感を得られてしまうものだと思うし、そういう「安心したい」「全能でありたい」という願望は、自分自身の中にだってもちろん存在している。
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そんな現実に対して、松田さんは、まど・みちおさんという詩人の生き様からメッセージを伝えてくれた。わずか2時間のそのかけがえのない時間は、「大きな物語」ではなく、「大いなる物語」とでも言えるような世界の存在を僕(たち)に示してくれたように思う。
「大いなる物語」とは、一人一人の生、一つ一つの命や時間の流れに関連性を見出し、全てはつながっていて、だからこそ小さなひとつひとつが美しい、という価値観。今この瞬間を紐解いていくと、その"不思議"は結局宇宙の誕生までつながっていく。例えば、身体を通り抜ける夏の気持ち良い風を感じ、その気持ちよさや心地よさを感じるとき。なぜその状況が心地よいのかを紐解こうとすると、必然的に「風とは何か」「なぜ風が生まれたのか」を考える必要が出てくる。そしてそれは結局、宇宙の誕生までつながっていく物語の始まりだ。
人間一人一人の命も、きっとそういう類の奇跡に溢れている。
まどさんが母校の小学生に送った手紙。この手紙の言葉に救われた子供たちがたくさんいたのだそう。
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「大きな物語」と「大いなる物語」の違いはそこにあるのだと思う。
前者は、一見「みんな一緒」を大切にしているように見えて、その流れに乗れない人々を区別する「分裂の思想」なのではないだろうか。なぜなら、その本質は競争にあるのだから。それぞれの幸せにではなく、一つのわかりやすい幸せ(=大きな物語)に向かってみんなが競争し、それを獲得できた人は幸福で、そうではない人は幸福ではない、となる。それが「大きな物語」が生み出す「分裂(区別)社会」なのだと思う。
一方で、「大いなる物語」は、そういう分裂の思想とは対極にあるものだろう。ひとつひとつの小さな物事を紐解いていくと、それは結局、大いなる世界につながっている。だからこそ、ひとつひとつの存在には必ず意味があって、ありのまま、そのままでもとても美しい。それが大いなる物語が提供してくれる価値観であり風景だ。
詩や、童話や、アートというものは、競争原理に陥りがちな人間が、普段忘れてしまっている「細やかな世界」や「大いなる世界とのつながり」、そしてその大切さ、美しさを、改めて目の前に浮かび上がらせてくれる装置なのだと思う。僕がエンデの『モモ』を読んだ時に感動した「生きた時間」の描写も、きっとこういうことなのだろう。
メリーゴーランドの一角にも、エンデ作品が。
まど・みちおさんの詩集を読み終えたときに、いつもは見えないものが見えるようになった気がする。肌に触れる風の滑らかさに、ドキッとするくらい奇跡的なものを感じるようになる。そして、そんな世界に触れることができる自分自身の存在もまた、かけがえのないもののように思えてくる。
その先にあるのは、きっと私とあなたを区別するのではなく、そのものの美しさを認める豊かな世界なのだと思う。僕たちはもっと、自分の生を、そしてこの世界に生きている生全体を、ありのままに誇っていいはずだ。
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