【ショートショート】特別な人間なんていないという不都合
あなたの大きなお腹を見た時、恐ろしさで言葉を失った。
壊れちゃう、と思った。
人間には耐えきれないほど、異常ほど大きく膨らんだお腹は、子供が健やかに育つことが優先で、正直母親の体なんてどうでもいい、と言っているようだった。
皮膚は極限まで伸びてパンパンに張り詰め、爪楊枝でも刺したらそこから大量の血が吹き出て貴方が死んでしまうんじゃないか。
わずかな段差で躓いたら破水してしまうんじゃないか。
そう思って、私はあなたをただじっと座らせておこうと、動き回った。
でも、私の努力も虚しく、あなたは自分がアイスコーヒーを飲む時には私の分も当たり前のように用意し、夕方が近づいてきたら夫のために夕飯の用意を進めた。
さすがに腰が痛いからと笑って、重たい椅子を持ち上げキッチンに移動させて、座りながらネギの味噌汁を作っている。
気の効かない私は、そら豆の筋を取るというなけなしの仕事を貰という始末で、静かに作業を全うするに努めた。
せっかくあなたの体を気遣いたくて会いにきたのに、あなたは終始私をゲストとしてもてなし、
私はただただ自分の無力さに途方に暮れていた。
「どうしよう、怖いよ」
夜中に突然着信音が鳴り響き、飛び起きて出るとあなただった。
電話の向こうであなたはすすり泣いていた。
「怖くてたまらない、隣のベッドの人が一晩中のたうち回ってる」
私は寝起きの頭で必死に言葉を探した。
大丈夫だよ
すぐに終わるよ
もうすぐ赤ちゃんに会えるね
皆楽しみに待ってるからね
どれも役に立つはずもなくて、私は何の言葉も出せず、代わりになぜだかあなたの名前を呼んだ。
「もう今更ビビったってしょうがないのは分かってるけど、怖すぎる」
あなたはすすり泣きながら「なんで私ばっかり」と息を吐き出すように言った。私はなんだか段々怖くなってきて、すがるように「怖いね」と呟きながら、同時にお前が怖がってどうすんねん、と頭の中で自分をひっぱたく。
「やるしかないんだよね、そうだよね」
あなたはひとしきり泣いた後、言い聞かせるようにそう言った。私はベッドの上で頭を抱えながら、このままではダメだと、必死で言葉を探し続ける。
「夜中にごめんね、なんとか頑張るわ。また、生まれたら連絡する」
「お姉ちゃん」
慌てた口先から言葉が漏れ出た。
「大丈夫だよ」
どの口が、何を言ってんだよ。
あなたは、うん、ありがと、と言って電話を切った。
そのまましばらく、スマホを握りしめながら、ベッドに腰掛けて薄っすらと明るくなりはじめた外の様子を見ていた。
「何でそんなに出産が怖いの?」
職場の女性にそう聞かれたことがあった。
「なるようになるから大丈夫だよ」
「昔何かあったの?そんなに怖がってる人初めて見た」
よく言われることだ。言われすぎて聞き慣れたと言っても過言ではない。
私はヘテロセクシュアルで、恋愛対象は男性だし、処女でもない。でも、セックスをする、というのは私にとって愛情表現であり、娯楽でしか無かった。セックスの先に、自分が妊娠し、相手との血を分けた子を産む、というのがどうしても現実として受け入れられなかった。人間の作ったフィクションには飛びつくくせに、この体に配列されているはずの本能が、私の中ではまるで働いていないのかもしれない、とぼんやり思う。
「子供今産まないなら、卵子凍結しておきなよ」
医者になった友達にそう言われたこともある。後で後悔しないためにも、と。多様性の時代なのだから、新しい性のあり方として、子供を産まない女性というカテゴリも作って欲しいと思う。
私はおそらく、様々な人にとって都合の悪い存在なのだろう。でも、私という都合の悪い存在を受け入れるということが、多様性を受け入れる、ということなのではないか。
あなたは「安産だった」と喜んだ。「切らなくて済んだ」と笑っていた。
「切る」ということがどこを何でどれくらい切る、ということなのか考えただけで下っ腹が縮み上がるような気持ちがしたが、あなたの笑顔はそれすら「大変だった」「痛かった」の言葉でまとめてしまう。
父は真っ先に赤ちゃんに駆け寄った。あんなに嬉しそうな顔は初めて見た。
母はいち早くあなたに駆け寄った。
よく頑張ったね、と目に涙を浮かべながらあなたの手を握った。
後にあなたは、「あの言葉が何よりうれしかった」と言っていた。
私はそれらを輪の外から俯瞰するような気持ちで眺めていた。
「女性は本当に強いよなあ」
父は手を取り合う母とあなたを見ながらつぶやくように言った。
いや、私はそうは思わない。
女性は、底しれないパワーを元々持っているから強いんじゃない。生まれたときから、何かしら特別な遺伝子配列を体に書き込まれているから強いわけでもない。
望むなら、強くあらねばならない、覚悟を持たなくてはならない運命にいるだけだし、
強いのは、それぞれが人生の中で真面目に生きてきた結果があるだけだ。
あるのは、覚悟と、その裏にある生き様だ。
性差があるかもしれない、それでも、男の体を持った生き物と同じ、人であることに変わりはないのだ。誰も天使でも女神でもなく、同じ生き物なのだ。
だって、女性としての体を持っている、というだけで人が強くなれるのだったら、宗教もいらないし、私は異常者にもなるのではないか。
私はこの先のあなたの未来を想像する。
あなたが良き親であろうと努力をするのは、
子供を守ろうとするのは、
夜中に何度起こされてもそれに応え、毎日何度もおむつを取り替え、何度も汚物で手を汚すのは、
子供の健康を考えて四苦八苦するのは、
自分の時間を子供のために割き続けるのは、
母親が強いからじゃない。
それがその人の生き様だからだ、と私は思うのだ。
私は嬉し涙なのか、安堵の涙なのか、分からない涙を流して母の手を握るあなたをこの目に焼き付けながら、
あなた達の生き様に、感服するのだった。
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