「シェーグレン症候群」と生きる
これは2020年8月にあった出来事です。
昨夜改めて、趣味を一つ、失ったことを知った。
私は歌うことが好きだ。元々音楽の中で生きていた人生だった。昔の私は母曰く「音痴」だったけど、それでも子供時代からずっと、歌うことは好きだった。
中学二年、転校したばかりで孤立していた私をクラスメイトが合唱部に誘ってくれた。吹奏楽の入部は母の睨みで瞬時に諦めた。合唱部なら伴奏=ピアノを弾くという名目で「自分の練習を疎かにしない」という前提があれば、許可されるのではと打診した。思惑はあっさり実現し、合唱部の一員となった。結果的に言えば、本当に伴奏がメインで、あまり歌う側になることはなかったけれど、それでも伴奏が弾ける子も何人かいてくれたお陰で、時々そちら側に立って、ハーモニーの中に身を置くこともできた。音楽の授業やクラス単位の合唱コンクールなんて生温いやつじゃなくて、歌うことに本気で取り組み、恥じらいに戸惑わず、自信を持って大きな声で響き合う声の波の中で、声量のセーブもせず本気で歌うこと、ハモリを楽しむことが、とても心地よかった。そんな人達のために伴奏するのも楽しかった。それこそ、私が本気で弾いて出す音量で歌声を潰さなくて済む、こちらで余計な調整をせずに済むことだけで、心底気分は良くなれたのだ。しかも、私がどんな楽譜でも初見で弾けたって、それについて僻まれたり嫌味を言われたりせず、「みんな弾けないけど伴奏は必要だから有り難い」のスタンスでいてくれることだけでも、本当に救われたのだ。部活によって人前で歌うことへの羞恥心を取り払えたら、音楽の授業での歌のテストでも堂々と歌えるようになった。それまでの私は母の「あんた音痴やからねぇ」「音痴やったからねぇ」の言葉を信じ、小さな声でしか歌うことができず、そして評価を更に下げていたようで、教師からも「歌上手やったんやねぇ」と感心されたりする場面も出た。そしてそれは後々、音楽大学の受験科目にも活かされた。音大に入学後も何かと声楽科の人との縁を持ち、サークルも合唱研に所属した。沢山の先輩に混じり、ピアノが特別上手いという立ち位置ではなく、ただの「部員の一人」として舞台の端っこに立って歌う、という経験もした。その頃には母からも「音痴だったけどまぁまぁ上手くなったんやない?」と言われるようになっていて、気持ちの良い美しく正しい音、が自分の喉から軽く飛び出していくことに楽しみを見出しせるようになっていた。
「歌うことが好き」と言えるようになっていた。
中退、家出、DVからの逃避、泥沼の生き地獄、その合間に、現在の夫である「みーくん」とはしょっちゅうカラオケに行っていた。私は家族でカラオケに行ったことが数回あって、中学卒業のクラスの食事会の後、二次会みたいなノリでカラオケに行ったことがある、くらいの経験しかなくて、カラオケのマイクに声を通す方法も分からなかったし、最初は本当にヘタクソな音しか出なくて悔しかったのだけど、みーくんは流石、年齢が八も上だと大体のことは経験値で勝てる訳がなく、そして彼はプロを目指す業界に入りかけ、そういう人達の美しい音を常時耳にしていたから耳だけは肥えた私からしても「メロディだけはとても正確に歌える(ただしリズム感に難あり)」と判定できる人だったので、歌を聞くこともあまり苦痛じゃなく、私がカラオケでの声の出力に悪戦苦闘していても声が裏返っても音を外しても採点結果が低くても途中のメロディを忘れたり間違えたりしても、一切茶化さなかったので、私達は暇を持て余すと「じゃあカラオケ行く?」と夜通し歌い明かしたりしていたものだ。
私が聞こうとしないJ-POPを好んで歌うみーくんと、アニメやボカロなどの所謂ヲタ系ばかり好んで歌う私。知らない曲がお互い飛び交う中で、時々「今の何? いい歌だね」が発生し、デンモクを操作する手を止め、相手の歌に耳を傾け、画面の歌詞を読み、時には本人映像に一緒に見入り、知らないジャンルの摂取を楽しんだ。価値観を共有し、広げていった。
そしてそれは、結婚してからも今もずっと続いてきた。コロナで外出が規制されるのと同時期に、我が家では長男と長女の施設からの帰還という一大イベントがあり、そしてそれに伴い、休日に家族六人で行動することが車なしの生活ではかなりの苦行であることを学び、よって三月よりも前からこの八月のラストまで、カラオケに行くことなく生活してきた。それがとてつもなくストレスであり、私もみーくんも「はぁ〜、カラオケ行きたいねぇ〜……」が日常の愚痴に混ざるようになっていた。ようやく、という気持ちの中、成り行きではあったが家族六人で初めてカラオケに行くことができたのだった。最初は私と長男長女、後から園行事があった次女三女を抱えたみーくんが合流した形だが、それでもまだ歌えない三女以外はとても楽しく歌い、それぞれが「上手いじゃん!」と互いの音楽を褒め合った。とても有意義で充実した時間だった。
そんな中で、私は一人、絶望していた。
『シェーグレン症候群』により唾液の分泌が如実に減少し、口内も喉もすぐにカラカラになってしまう今の私では、以前のような歌い方ができなくなっていることに直面したから。
高音を出そうと思うと、声量が必要になる。声量は腹から出すが、通ってくるは喉だ。その喉が、ひゅっ、っと擦れ、一瞬のうちに声が枯れる。発声方法だって分かっている。今までもそうやって歌ってきた。高音廚、とまではいかなくとも、それなりに高音を武器に歌ってきた。低音が出ないからそれをオク上で補ったりもしてきた。なのに、高音を封じられ、一瞬でカラカラに、そしてカスカスになる喉と声で、何を歌えばいいんだろう、と逡巡し、悟った。
今までの得意曲は全て失ったんだ、と。
あの日から私は好きな曲を口ずさむのも少し、怖いと感じるようになった。歌のアプリも、優しいお友達がMIXしてくれた数曲の「歌ってみた」の動画も実は非公開にした。私にはもう人前で歌うという選択肢は消えた、みたいな感情で満ちてしまったのかもしれない。
元々低音が出なくて好きな男声曲が歌えなくて、それなら高音曲で、みたいなノリではあったけど、それでも高音が伸び伸びと出て響いていくのが好きだったんだ。それがなくなったら、私なんて、歌なんて大して上手くない三十路過ぎのおばさんなだけじゃん。
新しい歌い手さんや歌手やバンドを知って、いいな、と思う度にこれからの私はきっと「でももう私には」と打ちひしがれるんだろう。別に歌に人生賭けていた訳でもないのに。
身勝手なのは、私なんじゃないか?
高音が出ないのが悔しくて、今まで喉が辛くて出せなかった男声曲を歌いまくった。どうせ歌えないなら、死にそうに掠れて聞き苦しい高音より、多少聴いていられる低音で歌ってやる、みたいな吹っ切れ方をして。
でも実は、案外好評だったのだ、家族には。それは勿論身内贔屓で幾重にもなった脚色フィルター越しだったに違いないけど。でも、家族は揃って、「かっこいいね!」「似合ってるね!」「やっぱり上手いなぁ!」等と、これでもかと褒めちぎってくれたのだった。
失ったことが怖くて辛くて、どうしても未だに尻込みしたままで、家族からも隠れて、家事の合間に時々小さく鼻歌を歌ってしまう程度になった私の中の「歌う」という行為。でも、もう少し落ち着いたら、受け止められるようになったら、今の私に出せる声で、また、歌ってみたい、とは思うようになった。時間が解決してくれるものも、ありはするのだと、少しだけ前を向いている。
どうせ高音は出ても可愛い声は出せなかった私だ、だったらこの際、かっこいい歌い方を目指してみようか、なんて思えるくらいにはなった、2020年11月頭の話。
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