見出し画像

『ビギナーズ』レイモンド・カーヴァー著

村上春樹訳の小説紹介、第2回目。今回はレイモンド・カーヴァーさんの紹介と、短編集『ビギナーズ』の感想を書いていこうと思います。

ちなみに前回の記事はこちら。グレイス・ペイリーさんという女性作家の紹介をしています。
https://note.com/sculpin/n/nc306f0b088f6

まずレイモンド・カーヴァーについて。時代的には、1938年生まれ、1988年没。この人は遅咲きで、きちんと大手でデビューして評価されていたのが晩年(といっても50歳で亡くなってしまっているのですが)なので、大まかにいうと出版時期は1975~1985年あたりだと思います。つまり、半世紀近く前の小説家です。
で、どんな特徴の小説家かというと、一番の個性はびっくりするぐらいシンプルな文体です。センテンスはいつもぶっきらぼうといえるほど端的で、凝った比喩はなく、それなのにきちんと文学をしている。出しているのは主に短編小説と詩で、長編小説はおそらく出していません。
物語は結構殺伐としていて、結構な頻度で主人公がアル中で、愛も生活もずるずると破綻していっています。浮気も多いです。レイモンド・カーヴァー自身がアルコール中毒であり、離婚も経験しているので、やや私小説の傾向があるといえるかもしれません。本人の生活の立て直しとリンクして後期の作品は徐々に穏やかさを増してくるのですが、『ビギナーズ』はなんとか立ち直り始めた時期の作品なので、光より闇の成分が多いです。
アル中の主人公を描く(かつ自身もそうであった)小説家というと、他にフィッツジェラルド、ジョン・チーヴァーあたりも思いつきますが、カーヴァーがその二人と大きく違うのは、ブルーカラーの人々を描いていることです。

雰囲気と文体を伝えるために、「もうひとつだけ」の書き出しを引用します。

LDの女房のマキシンは、ある夜、彼に向かって出ていけと言った。仕事を終えて家に帰ってみたら、LDがまた飲んだくれて、十五歳になる娘のビーに口汚い言葉を浴びせていたからである。LDとビーは台所のテーブルの前で激しく口論をしていた。マキシンには持っていたバッグを置いたりコートを脱いだりする余裕もなかった。

あ、そういえば。『ビギナーズ』は、カーヴァーの代表作のひとつ『愛について語るときに我々の語ること』のオリジナルバージョンになります。
『愛について語るときに我々の語ること』は当時の編集者によって、全体の文量でなんと半分ほどカットされた、度を超えたアレンジバージョンだったのです。
どうしてそんなに派手な編集がなされてしまったについては、詳しくは『ビギナーズ』の中に解説がありますが、簡単に説明しておくと、編集者がカーヴァーに対してかなり支配的になっていたみたいです。
二作品の違いについては、私は『愛について〜』の方を読んだことがないので、語ることは出来ませんが・・・どうなのでしょう。先に『ビギナーズ』を読んで裏事情を知ってしまうと、どうしても読む気になれなくて。だって十分な合意さえ無く半分も削られてしまった小説なんて、あまりに悲しいじゃないですか。作者のそんな犠牲の上に成り立つ芸術はありません。あってはならないはずです。

さて、ここからは作品の感想に移ります。ややネタバレありです。というか、そもそも読んだ人向けの感想になるので(物語の説明は頑張りません)、ご理解ください。
17編全部の感想を書くのは長いし大変なので、気に入ったいくつかの作品に絞ります。順番は小説に準拠していません。

「ささやかだけれど、役に立つこと」
カーヴァーさんの作品の中で一番好き。ものすごく簡略化して筋を書くと、とある夫婦をとある悲劇が襲って、手違いの積み重ねでパン屋がその八つ当たりをされるんだけど、そのパン屋さんが夫婦を励ます話。

「言いようがないほど気の毒に思っております。あたしはただのつまらんパン屋です。それ以上の何者でもない。以前は、ずいぶん昔のことになりますが、たぶんあたしもこんなんじゃなかった。でも昔のことが思い出せないんです。いずれにせよ、あたしは今とは違う人間でした。今のあたしはただのパン屋にすぎません。・・・(以下略)」

この、『以前は、ずいぶん昔のことになりますが、たぶんあたしもこんなんじゃなかった。でも昔のことが思い出せないんです。いずれにせよ、あたしは今とは違う人間でした』というのが、間違いなくカーヴァーさんの一つのテーマになっていると私は感じています。昔は愛や希望や夢をもっていた、でも暮らしの中でなぜかそれらは失われてしまった、何が起こってしまったのだろう・・・と。
喪失は文学の代表的なテーマの一つだと思うのですが、その在り方は人それぞれで、カーヴァーさんのものはブルーカラー特有のかなしさといとおしさを感じさせます。そういった味わいは、なかなか他の小説家の作品に見出すことは出来ません。やっぱりどうしても、芸術家というのはホワイトカラーが多いので。

「浮気」
大人になった息子が、父親の過去の浮気の打ち明け話をされる物語。浮気の仕方はろくでもないし、その結末は全くもって救いがないし、きちんと自分なりに咀嚼して振り返ろうとはしているんだろうけど自己正当化しようともしているし、「いや、まじそんな話を息子にしてんじゃねえよクソ親父」と言いたくなる、あまり愉快ではない作品。でもそこが妙にリアルで、必要以上にドロドロした描写は全くないのに、人の弱さがじっとりと炙り出されている。なんとなくヒヤリとする。
自分は絶対にそうならない、と言い切れないからかもしれない。人は絶対に間違いを犯す生き物なんだけど、ほとんどの場合それは大事故にならずに済むから、どうにか日の当たる場所で生きていける。でも時には大事故になって、取り戻せない傷を負う/負わせてしまうことがある。問題なのは、大事故になるかならないかの境目が、ただ単に「星の巡り」でしかないことだと思う。

「ビギナーズ」
表題になっている作品。「愛について語るときに我々の語ること」のオリジナルバージョン。
二組のカップルが飲みながら愛について語り合う物語。愛のカタチって、うーん・・・色々なんでしょうかねえ。それはまさに愛だ!と感じられるエピソードと、それは愛じゃなくね?と突っ込みたくなるエピソードの両方が出てくる。でもなんとなく感じ取れるのは、それを愛だと捉えることでその人が幸せになれるなら(かつ誰も不幸にならないなら)、何を愛と感じるかは自由なんだろう、という一つの真実。むしろやってはならないのは、愛を四角四面に定義して、その自由を侵害すること。つまり、私たちは愛について語るべきなのだ。・・・なのかな?
私は多くの人たちと愛の在り方が結構ズレていて、そのズレはいつも私を傷つけてきたし(と私は感じている、勿論こっちも傷つけてはいるんだろうけど)、置いてけぼりにしていったから、自分に引きつけて考えると複雑。
でもとにかく、この小説は素敵です。

「ガゼボ」
ガゼボは、あずまやのこと。一緒にモーテルを経営しているカップル(パートナー)が男側の浮気からずるずるとダメになって、両者アルコール漬けになって、モーテルの経営をほっぽって喧嘩と別れ話をしている。その話の中で女側が「昔はこんな素敵な日々もあったわよね」と、ガゼボに関わる思い出話をする。これまで紹介してきた3作品と違うのは、主人公がリアルタイムに当事者で喪失中であること。
まあ自業自得でしょ、と言いたくはなるのだけれど、主人公がなぜ救いのない浮気をしてしまうのかを真剣に考察してみると、社会から排除されているのがどこかにあるのかなとは思う。繊細さを抱えているブルーカラーの男性は、例えきちんと仕事があってパートナーがいても、何かしらのプレッシャーや敗北感に晒されているのかもしれない。そして、その心理的負荷と本質にある社会の不平等を理解する土台もないから、浮気という形で行動化してしまう。
個人の物語によって社会背景(もっと普遍的にいえば人が人として生きるかなしさや儚さや美しさ)を映し出せるのを優れた文学と定義するなら、間違いなく優れた文学だと思う。カーヴァーさんの素晴らしさはそんな理論の必要もなく、半世紀近くたっても、遠く離れた国にも、熱心なファンがいることが証明しているけれど。

感想は・・・この4作品で終わりにします。「みんなはどこに行った?」「出かけるって女たちに言ってくるよ」「もし叶うものなら」「足もとに流れる深い川」「ダミー」あたりも語りたいものはあるのですが、キリがないので。そこまで書いてしまうと、さすがに記事が長すぎです。

カーヴァーさんの本はあと何冊か持っているので、気が向いたらまた感想を書くかもしれません。それでは、また。

いいなと思ったら応援しよう!

すなくろ
ゆくゆくは情報発信や創作で身を立てたいと思っています。サポート頂けると大変嬉しいです。

この記事が参加している募集