【深圳男児襲撃事件】中国側にはそう言って欲しくないけど「個別の事案」だとも感じる
9月18日に広東省深圳市の日本人学校の前で、10歳の男児が男に腹部を刺され、その後死亡した。とても悲しくなる。
自分が9月7日まで深圳にいたことも、今回の事件をより一層身に染みて動揺を与えるものにしている。
速報を見て感じた驚きと悲しさ。そしてすぐに思った。”深圳はそんな場所ではない”と。
広州・深圳に滞在中、日本人だからと何か不当な扱いを受けたり、好ましくない態度を向けられたり、卑下されたりすることは全くなかった。日本人であることは全く隠さず、むしろコミュニケーションのために積極的に開示していた。さもなければ、中国語・広東語でフツーにベラベラ話しかけられる。ビジネス街・駐在員居住区でもないところに、アジア顔の外国人がいるとは思っていないのだろう。
むしろ、優しく丁寧にみんなが対応してくれた。船乗り場まで行くバスに乗る前に渡し船が急遽運休していることの伝達、電話番号のない私の展示室への入場登録、電話番号のない私のWeChatでのバス運賃支払い方法(結論できない)、買おうとしたお茶を二本買うと一本分無料になること…キリがないが、親切にしていただいた場面はいくらでも思い出せる。これら全て、私が日本人であることを把握した上での対応だ。
警察や膨大な量の監視カメラに対してはずっと緊張感があったが、暮らしている方々に対してそれは感じなかった。
だから、今回の襲撃は、「個別の事案」であると受け止めている。
ただ、これがまさに当局・メディアからの発表そのものであることは受け入れ難い。
個別の事案であって、集団や共犯者で計画した犯行や、連続的な事案ではないのかもしれない。ただ、そう言って動機や経緯を明らかにし続けないのであれば、それは受け入れられない。
明らかになったわけではないが、事件の背景に、長年の反日教育が指摘されている。犯行のあった9月18日は柳条湖事件(1941年)が起きた日だ。終戦までの日本による侵略の始まりの日だ。つい6月には日本人学校通学中の親子が刃物で襲われる事件が蘇州で発生していた。親子は軽いけがであったが、二人を刃物から守った中国人の女性が死亡した。吉林省での米国人大学講師の切付け事件も同様の文脈(反日・反米)で紹介されることが多い。中国のネット上で義和団に準える言動もある。
蘇州での件も含めて、動機はまだ明らかにされていない。日本人を狙ったのものなのか、という点はとても重要である。
ナショナリズムを全否定できない。個人としては自分の生まれ育った国や地域を愛することは素晴らしいことだと思う。また過去の悲劇を振り返り他国に責任を問うたり国際社会に反省を促したりするのも大切なことだ。ただ、他国への過去の恨みを現在の暴力に転じることが許されていいものか。ナショナリズムの裏面に潜む、領域外部への排除・差別・侵略を決して容認することはできない。
この事件に対して私が憤るのも、日本人としてのナショナリズムだと指摘できよう。同様に、事件の起きた現地の方々にとってのナショナリズムも存在するだろう。一方で、現地の共同体の外にある日本人男児に対して、彼らも共に悲しんでいる。対立を煽る言説や教育もある一方で、ニュースでは献花に訪れる現地の方々の姿が報道されている。そこには「深圳人」「HK市民」を超えた連帯の意識がある(cf. 本記事トップの画像)。
祖国をよく知り愛することは、その(想像の)共同体の利益しか認めないということではない。
今の国際情勢で罷り通る、他国との対立を煽って現体制を安定させる手法に、日本を巻き込むのはやめてくれ。本当に「個別の事案」であればいいのだが。
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