大切なものは、皆、違う。
あなたにとって大切なものはありますか?今でもずっと大切にしてきたモノはありますか?誰かが見れば、ボロ雑巾のように見える毛布も、ずっと幼いときから使ってきたたいせつなものであったり、見かけや存在だけで、その大切さや想いの強さは測れません。つまり、「大切なもの」とは、みな「違う」ということです。
1、「大切」であるということ
世の中に存在するモノや、場合によっては人間でさえも、単に物質や生物学的な存在だけで見れば、そこにあるのは「成分」や「分子」にすぎないことでしょう。でも、それは「単なるモノ」ではなく、誰かの思いや、また誰かを「想う」ことのできる存在。決して「物質的な価値」だけで、存在しているわけではないのです。
鉱物の中の最高峰といえば、ダイヤモンドは、たしかに希少性と其の輝きから、世の中でも広く知られた「たいせつな」ものとして、崇められるものかもしれません。
でも、空腹に耐えきれないほどの状況にあるのなら、それを換金してでも、「満たされる食物」のほうが大切であることでしょう。よって、「大切」とは「相対関係」によっても、その位置づけは変わってくることでしょう。
こうしてみると、「大切」であるということは、単に物質的なモノとしての存在で決まるのではなく、私達人間が、関係性や関わりを通して、その地位と重みが変わってくるわけで、「1つのものさし」で決まるものではなさそうです。
だからこそ、「大切なもの」とは、本人や当事者以外が評価することや、扱いを決めることは、一線を超える尊厳に関わることであり、そして、その人が「大切だ」と想うことは、尊重されなければならないことでしょう。
あなたに大切なものがある。
私にも大切なものがある。
お互いが、それぞれの大切なものを大事にすること。
それで、はじめて「大切」とは存在できるものである、ということを。
2、「関わり」と「つながり」
では、この大切なものが、それぞれあり、そしてそこの対して、「他人」としてどういう態度で接したりすればよいのか。
それは、「関わらない」ことも、大切であると想うのです。
「大切なもの」とは、必ずしも「楽しい」や「嬉しい」だけの感情をもつものではないかもしれないからです。
「悲しみ」や「愛おしい」存在かもしれない。不慮の事故や突然の出来事によって、得られた「唯一の存在」だとしたら、そこに触れることが、相手の記憶や思いを掘り起こすことになるのかもしれない。
だから、「関わる」ということは、安直にすべきでないのかもしれないのです。
触れないでおく。それもやさしさだと想うのです。
関わらないでおく。それもやさしさだと思うのです。
そっとしておく。それもやさしさだと思います。
つながらないでおく。それもやさしさだと思います。
人と人との関わりは、一期一会。お互いの状況と心によって、変化するもの。だからその関係性を普遍的で、恒久的な形にしようとするからこそ、ズレや違いがより見えてくる。
適度な距離感があるからこそ、そうした「隙間」に触れないでいられる。「トゲ」触れなくても済む。「本気」でぶつからないで済む。適度な距離感によって、えられるやさしさだってあると思うのです。
3、「居場所」をさまようモラトリアム
ここ2年ほどで、人間の生きることそのものが問われる時代となりました。何のために生まれて、何のために生きるのか。考えることが多くなったことと思います。
多拠点だ、2拠点だといって、自分の居場所を彷徨うモラトリアム。地に足つける土地がなく、浮遊するその先に、心の安らぎはあるでしょうか。魂を込めることができるでしょうか。
いま、都会には、故郷も田舎もない人が多くいます。そんな全国からあふれる「自由と気楽さ」をもとめて、行動経済成長期以降、地方から都市に人が送り込まれてきました。
結果として、この都市に、何が生まれたでしょうか。成長と拡大の資本主義に破れ、居場所を失い、また自然あふれる地方に戻ろうという逆のベクトルが働こうとしています。
そもそも、快適さと便利さにどっぷり使った軟体動物が、天候と資源環境の厳しい地方に足を向けたところで、都市以上に生き延びることは困難でしょう。
未知の土地なら、きっと受け入れてくれる場所がある。海外留学が流行ったシンデレラ・シンドロームが、地方にベクトル変えただけに過ぎない、そう見えてしかたがありません。
夢と希望と、愛に渇望した人が、世界中のどこを探し求めても、そこに求めるものはありません。なぜなら、愛とは「育む」もので、血に足つけた生活の土台があってこそ「まもる」ことのできるものだからです。
人生という限られた時間をいつまでも「お試し」や「借りぐらし」では、一生かけても安住の地や居場所はないのです。
本当に必要なことは「受け入れてくれる土地」ではなく、未熟でも、至らなくとも、まだ十分な力が備わっていなくても、「自分」という弱気存在を自分自身で認める。つまり「自らを信じる」という内なる存在感をまず認めることが先なんじゃないですか?