分断する社会に向き合う
1、もやもやした社会
既に多くの人は気づいていますが、政治は民意を期待する手段としては機能せず、与党か野党かという2つの選択肢の間で揺れ動くだけで、具体的で効果的な政策論争や意思決定は見受けられなくなりつつあります。
世界は享楽的に新大陸や火星などニューワールドのように飛躍した夢を追うか、超現実主義的に狭い世界で同一の価値観と感情を持つ人で小さな経済圏を目指すのか。
そんなふうに世の中は二極化する方向へ向かいつつあります。
けれども、多くの人にとって、「どちらも現実的ではない」と思っているようにも思います。宇宙へのあこがれには「いつまで子供じみた幻想をいだいているんだ?」という冷静すぎるツッコミと、一方で、強力なリーダーシップや教祖様のような教えを請う人に全てを委ねる規則や制限の厳しい単一的な社会へも、ちょっと抵抗はある。
そんな世界の選択肢しかないなかで、きっと多くの人は「もやもや」して社会に生きているのではないでしょうか。
2、民主主義はもう死んだ
「民主」主義とは、民意を大切にすることですが、その民意はどうやって集め、決められるでしょうか。その唯一の行使手段が、日本でいえば「選挙」です。しかし、この選挙の投票率は、御存知の通り、50%を割り込むどころか、30%台で候補者が当選するような状況。あるいは無投票で候補者が当選してしまうのを幾度と目にするたびに、「選挙なんかしたって変わらない」という認識が、若い世代ほど広がってしまっているものと思います。
人口構成でみても、20代の若者が投票に100%言ったとしても、60代の有権者数の過半数に至るかどうかという状況では、「高齢者の民意」が反映されがち、というところも、若者の「選挙離れ」「政治離れ」を加速させているのです。
そんな世の中だと認識しながら「民主主義」で社会を良くしていこうという呼びかけに、果たして若い人たちはついていくでしょうか。社会やよくわからない世界などいうものよりも、自分の今目の前をなんとか生き抜くことや、目の前でリアルに感じられる楽しみや喜びに集中したくなる。
それは、決して若者が「現実と向き合わない」わけではなく、「現実を知っているからこそ」の行動であると言えるでしょう。
こうした、世代間の分断や、政治との距離が離れ、社会と離れ、個が個でつながるネットワークの社会が人とのつながりの中心となったとき、この世の中はどうなってしまうでしょうか。
3,「一生懸命」より「是々非々」
何かを成し遂げることよりも現実的なこと。そして、全ての選択肢が自由に手に取れるほどの豊かさを享受した世の中では、「選択する」だけで、様々な目標やゴールに到達できます。
これまでは、「豊かな暮らし」「家や車を買う」、あるいは「結婚」なんかも人生に置ける「目標」とされるものがあり、そのために手段を手に入れる【=大学に入る、いい企業に就職する】といった努力がなされてきましたが、もはやその目標さえ魅力的でなくなり、そもそも手段さえ、将来を保証することがなくなった(年功序列や終身雇用崩壊、そしてリストラ含む)ため、人生を「長い期間」で考えることに無理が生じてきました。
これが「一生懸命」ではなく、その時々に応じて物事を決めていく「是々非々」という一見すると引き気味で消極的な生き方に至らしめたのだと思います。
これを高齢者や年長者が「やる気がない」というのは、ちょっと早計だと思いますし、「やる気を出すよう応戦するぞ」というのも、求められていないおせっかいにさえなるでしょう。
もはや、人々は「目標」さえ失う時代に入っているのです。
4、「目的」を買う時代になっていく
では、これからの時代がどうなっていくのか。それは「目的」こそが売り買いされる価値あるものとして商品化していく世界が生まれるのでしょう。
「世界を救うヒーローに成る」「みんなに愛される人になる」といった漠然としたものや「オリンピックに出場する」「ノーベル賞の受賞者になる」といったものさえ、あらゆる手段が高度化、進化し、これら目的を選択するだけで、一気にたどり着けるようなメニューがこれから用意されていく未来が待っているのでしょう。
人生をという限りある時間を、どんな目標を達成する積み重ねのストーリーで終えるのか。そんな社会さえ遠くないような気がします。
5,「商品」は「モノ」から「手段」へ
こうした社会の中で、「商品」とは何か。それは物質的なものや、何か介護サービスといった身体的に提供する労働力といった「特定できるなにか」ではなく、もっと「価値や経験を表するもの」として拡張していくことでしょう。
たとえば、「養殖の魚」があったとして、これは「単なる魚」としては物質に過ぎませんが、「海の豊かさの変化を感じる食卓」といった枠組みが商品化され、そのために「魚の食べ比べ」や「海水」「オンラインでの質疑応答」がセット化された「総体こそ」が「商品」となるような世界。
1物質を選ぶのではなく、それは構成要素の1つに過ぎず、その集合体として「何が提供できるのか」ということです。
拡張していく商品の輪郭をどうやって創造し、開発できるのか。それはまさしく「目標」自体を開発できる能力が求められますし、それに共感と共鳴をされる説明も付して行かねば、世の中に存在しないのと同じ。
そうすると、必要なのは「作家」のような物語を作り出すことであり、「演劇」のように様々な表現をできる演者であり、「音楽家」のように時間と音を紡いでペースに引き込む能力など、実はデジタル化が進むほど、理系というよりは、文系でもなく、「芸術的才能」こそが、強く求められ、尊重されていく世界になっていくのかもしれません。
マンガが書ける生産者
音楽の引ける農家
ショートコントのできる漁師
そんな「芸術×職業的専門性」の掛け算こそが、これからもてはやされる時代になるような気がします。いや、もうそっちに向かって行かざるを得ないように気さえするのです。
あなたの中に眠る感性に、火をつけて下さい。遅くはありません…。