成人式のなかった成人の話
二十歳になると、成人式。それは当たり前なのかもしれません。でも、高校を卒業して2年後。順調に進路を選択していれば、大学なら2年生、短大なら卒業。ちょうど節目のときに皆がお祝いするのだろう。
そんな世間のお祝いムードとは異なり、僕は成人式にでなかった。いや意志でではなく、正確には「出れなかった」のだ。
1、偏差値29からの大学受験
僕は面倒くさがりだ。基本的にやりたくないものはやらない。だからできるだけ物事を効率的に、効果的にやろうと工夫する。世間ではそれを「生産性」というだろうが、当の本人は自堕落なものが根底にある。
それに加えて、自分が納得しないと動かないものだから、結果がわかっていても、プロセスがわからなければ、テストの答えも書かずにバツをもらう。そんな偏屈な性格だったから、成績はもちろん悪く、高校生の時は1,000人超えのマンモス校の下から2番目、偏差値でいうと29という低さだった。
そんな僕が、なってみたい職業として、「スポーツトレーナー」があった。たまたま自分の高校がインターハイに何人も出場する強豪校だったので、スポンサーがつく選手もおり、全国大会などでは、メーカーのサポートを受けながら本番に望む。そこに、憧れることになった、日本代表チームのスポーツトレーナーがいたのだった。それが進路の目標になった。
2,頑固はやがて苦悩の道へ
昔から、運動は音痴で、かけっこも遅く、女子よりも遅い自分だったが、50m走で女子に負けても、そのままのスピードでは永遠走れるという事に気づいた小学生時代。マラソン大会で、学年の人気者が一番に校舎に戻ってくるところを、番狂わせで僕が校庭に入ってきたときの、歓声の直後のどよめきは今でも忘れない
「えっと、あいつ誰だっけ?」
無名の児童は、その時から自分の特技を見つけたのだった。結果的に中学校は陸上部にスカウト。市の大会でも入賞。県大会にも選出され、高校もスカウトされて入ったはいったはいいものの、学力はもちろん無し。ジリ貧どころか、ちんぷんかんぷんだったのだ。
そんな自分に現役で受かる大学などない。いきたいところは、先の憧れたトレーナーになれるスポーツ科学が学べるところ。なぜか、現役で併願をせずに、第一志望一本という無謀なチャレンジは、見事に不合格に終わったのだった。
予備校に入り、一浪しても、成績は上がらず、また不合格。いい加減退路を立たれた二浪目。1日10時間300日休みなしという武者修行のような勉強を逃げずにやりきることにした。
その渦中にあったので、成人式は出られなかったのだ。自分に課した「1日も休まない」と誓った二浪目。成人式の案内を破りすて、一ヶ月後に迫った本番を前に、机に向かった。だから、成人式がどんなものか、僕は知らない。僕には成人式はなかったのだ。
そして、試験本番、今回は流石に(といっても同じ大学のみだが)併願をして、別学部ではあったが希望の大学には合格した。
何度も書いて覚えた単語ノートは50cmを超え、書いたペンは500本以上。辞書は調べて尽くしてアコーディオンのように広がった。
3、二十歳の頃の自分へ
成人式にはいけなかったが、それでも自分には二十歳にやり尽くした思い出は、一生消えない。あのとき、自分に逃げなかった。誘惑に負けなかった。自分で課した目標を自分で超えた。それは一生モノの収穫。
自分の弱さがわかっている人間が、一番強い
あの時から、ずっと挑み続けている。もっと上へ、ちょっと上へ、さらなる上へ。
もちろん、社会人になってからも苦悩の道は続くのだが、自分との戦い方に慣れた人間にとっては、乗り越えていくだけの道。
あの時、逃げていたら、どういう人生になっていただろう。
あの時、言い訳をしていたら、今があっただろうか。
あの時、進学出来ずに悔しい思いを感じなければ…。
苦しいことは悪いことだけじゃない。きっと、自分を信じる糧になる。成人式は一生なかったものになっているけれど、それでも、自分に悔いはない。一生の悔いを残さずに、あの時を乗り越えたのだから…。
人間の弱さを、あの時の僕は、身を持って知ったんだよ、と。