わたしにできるペイフォワード
GWに献血をするわたし
緊急事態宣言が発出されている各地で、外出自粛を呼びかけても、行楽地にはたくさんの人が溢れている。どうも1年たってもう我慢できなくなっている人が多いようだ。残念だけど、私見制限のなく、人権が守られている日本には「お願い」という自粛方法しか、抑制の選択肢がない。
そんな最中、「不要不急」でなく、1年中必要なものがある。それが血液。工場で作ることのできない血液は、献血によって賄われ、多くの患者さんに届けられ、命を延ばしたり、危機的状況を脱する生命線となっている。
特に、GWや夏の行楽シーズン、年末年始など、人が休みに入り、こうした献血が少なくなってしまうであろう季節を選んで、年3回(400ml×3回=1200mlが成人の年間献血上限)になるまで、献血会場に足を運んでいる。
今日も、事前に予約した上で、最小限度の接触になるように往復してきた。献血会場は予約と当日も含め、多くの人が来場していた。善意ある人がこの同じ空間にいることも嬉しいことだが、この人数を遥かに超える人が、先のようにレジャーに遊びに出かけ、酒やジュースを飲み、屋外だからといって大声だしている人たちが同じ時を過ごしていると思うと、少し悲しくもなる。それでも、私は、私にできることをやるしかないから、変わらず、変えず、献血と感染防止を続けながら、仕事と生活をおくろうと思う。
生死をさまよった2008年
実は、ストレスと睡眠不足がたたり、肝臓を悪くして、肝膿瘍という病気にかかって入院したことがある。入院直前まで高熱があるぐらいだったが、明らかに血液に炎症反応があり、救急病院に搬送され、数々の検査を経て「肝臓に多発性の膿」があることがわかった。
その時から、絶飲絶食の4週間がはじまった。水も飲めない、のどが渇いても一切のものは口にしてはいけない。栄養と水分は点滴から。毎朝抗生剤を投与し、その影響で副作用もいくつかあった。食べずにいて激ヤセもした。そんなとき、同じ病室には、ワタシを含めて4人の入院患者がいた。二人は高齢者で、がんを手術なども繰り返す人と、隣は胃がんではじめての入院。そしてもうひとりは高校生ぐらいの若者が足の骨折での入院。お互いにコミュニケーションはないが、診察や回診、面会に耳を立てていると、病状や人間関係もよくわかる。
その中で、隣のベッドの胃がんの老人が特に興味が湧いた。毎日のように奥さんがお見舞いにくるのだが、亭主関白で命令口調。あれがほしい、これがほしいといい、そして所作にも文句をいい、気に入らないと激昂。そんな日々が1週間過ぎようとしたころ、奥さんはお見舞いに来なくなった。その後は、週に1~2度ほど、成人の子供がやってくるぐらいで、やがてそれも頻度が少なく…
2週間がたつとき、手術について、家族含めて揃って説明がなされていた。ちょうど入院した本人が検査に出ていて、奥さんとこどもがベッドで身の回りを整理している時、主治医が説明にきたのだ。カーテン越しに聞こえる現実に、自分も将来なるのかもしれないという一瞬の恐怖。そのとき主治医から告げられた一言は、重く、とても重いひとことでした。
「術後は胃ろうです。もう、ものは食べれません」
胃ろうとは、口から管を通し、胃に直接栄養を届けるというもの。その現実はどういうものか、点滴で栄養を受け、衰弱しているわたしにはわからなかったが、やがて、術後のその老人のやり取りから、現実を知ることになる。
人間は、「咀嚼」できなくなると、脳に刺激が伝わらない
「脳」に刺激がないと、人間はあらゆる活動が抑制的になる
脳が働かないと、人間はただ、そこに寝ていいるだけ。
意識はあるが、話さない、動かない。ただ、そこに命があるだけ。
日に日に衰弱していく老人を見続け、あの罵倒していた日々があっという間に無言になる現実を間近に、「健康」とはなにか、改めて考える機会となった。教科書や噂ではわからない、医療の現場。そして、人間が「食べる」ということが、どれほど生きがいや幸せにつながっているか。私はこのときの体験を経て、やがて「食べること」を通して社会に貢献する企業を創業することになるのだが…。
入院は大人だけではない
4週間の入院を経て、ようやく退院する日。はじめて病院内の状況を掴むことができた。それまでは出歩くことがあっても、病室と共用分、トイレぐらい。屋上に出られたのも退院間近になってからであり、どんな人がいて、どんな病気があるなんてことはわからなかった。
ふと通りかかった病室のエリア。アンパンマンの絵や乗り物のおもちゃなどがあり、ひと目で小児病棟だとわかった。その時に見た子どもたちの様子。薬の副作用か、髪の毛が抜けている女の子。筋肉が十分なく、寝たきりになっている幼児など、その場にいることがつらい現実がそこにはあった。でも、当人たちは実に前向きに元気に生きている。そんな小児病棟でみかけたのが「献血」のポスターだった。
白血病など厳しい現実と幼いながら目の当たりにし、輸血を経て元気になっていくお礼の手紙が貼られていた。それを見て、この4週間弱っていた自分と、これからの健康を取り戻す上で、何ができるだろうか、考えていた。
「そうだ、献血をしよう」
健康だからこそできること。O型陽性である特徴や、自分自身にできること。退院してからしばらくして、献血を早速しにいった。
でも、現実に、輸血を受けられる人の多くは高齢者がほとんど。献血した血が必ずしもあのがんばる姿の子どもたちに届くとは限らない。
それでも、だれかが、いまこの瞬間も、血液を欲していて、それが命や希望をつなぐのなら、それでいい。入院を通して、献身的に看護してくれた看護師の皆さん。検査で原因を丹念に見つけてくれた検査技師や医師のみなさん。診察以外もオフの時間に立ち寄ってきにかけてくれた研修医のみなさん。私は、多くの医療スタッフに助けられ、一瞬、生命の危険にさらされながら、日常生活に戻ってこれた。その感謝の気持ちを次の誰かのために。
命をつないでいただいた、感謝を、誰かのペイフォワードにできる私なりの方法の1つが、「献血」なのです。