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【短編】おれは雛人形
昨夜、おれとあいこさんは、いなり寿司をしこたま食べた。節分だったからだ。いや、一足飛びになってしまった。丁寧に順を追って振り返ろう。
2月1日22時、あいこさんは古びた居間で、ぽさぽさに広がった髪の毛で、ぽわぽわになった眉毛で、オシャレじゃない分厚い眼鏡で、
「一応年中行事やっとく?」
と言った。おれが
「年中行事……って何」
と返すと、あいこさんは、おれにもよく伝わるよう、わかりやすくため息を付き、しばし無言でスマホをいじって、LINEでおれにWikipediaの「年中行事」のURLを送ってきた。おれたちがそれなりの関係ではありつつ、「恋人同士だよね」という空気が一切ないのは、きっとこういうところが原因なんだろう。Wikipediaの内容と今日の日付を総合して、
「あー、節分になんかやりたい、ってことかー」
と言った。あいこさんは、節分にかこつけて恵方巻テイクアウトして一食楽しようという、魅力的な提案をした。
でも、怠惰で楽観的なおれたちは恵方巻を予約するなんてことはせず、節分当日にいつものスーパーに突撃した。スーパーはフードロス問題に真摯に向き合ったんだろう。恵方巻は一本も残っていなかった。代わりに、スーパーの出入り口のところで、ひとくちいなり寿司の専門店が出店を構えていた。
節分であってもブレずにいなり寿司を売る心意気に感銘を受けたおれ達は、値引きになっていることも手伝って、20個分のひとくちいなり寿司を買った。
外側の油揚げは同じだけれど、中のご飯は、刻んだ紅ショウガ入りやゴマと青じそ入り、五目ずし入り、シイタケの佃煮入りと様々だ。食感の違いを楽しみながら、ペロッと平らげてしまった。
おれが
「年中行事、ほんとに一応やっとく感じだったね」
とにやけると、あいこさんは
「気持ちだから。フリースタイル節分が逆にイカしてる。あといなりの方が絶対おいしい」
とか何とか言っていた。
そして今日、再び22時の居間であいこさんは
「次の年中行事に移るかぁ」
と呟いた。もう今度はWikipedia見なくても分かる。きっと雛祭りのことだ。もしかして、甘酒でも醸す気なんだろうか。おれは甘酒が苦手で、特にあの、平たいお粥みたいに残った米粒が、舌の上をゆっくり滑っていく感じが受け入れられない。とはいえ、あいこさんの醸した甘酒を断るなんて考えられない。スマホのブラウザを立ち上げ「甘酒 苦手 克服」と検索していたらあいこさんは
「仏間の押し入れに雛人形入ってるから、明日出すよ」
と言った。
「ん? 甘酒は」
「何、甘酒飲みたいの? あたし甘酒そんなに引き感じないんだが」
「甘酒の苦手克服方法知ってる? ミキサーにかけると飲みやすいんだってさ」
あいこさんは、顔をしかめた。この歳になって、ミキサー買ってまで甘酒大好きになれって? と。おれはようやく、反射的に手の中にある情報を読み上げてしまった自分に気が付いて、ヘラヘラしながら、ジョークですと言った。
それにしたって、あいこさんが雛人形を飾るなんて予想外だ。女子すべからく嫁にいくべし論の象徴だ~とか何とか言いそう。あいこさんと暮らしておれは、「すべからく~すべし」という言い回しを覚えた。この前地元の友達と飲んだ時に披露したら、へー、と言われた。
「あいこさん、雛人形とか飾るタイプなんだね」
「何、女子嫁行け圧がだるいとか言うと思った?」
おれの想定より端的な言い回しだけど、同じことを考えていたんだと思うと、妙に嬉しくなった。おれさっきからずっとヘラヘラしてんだなぁ、と感慨に浸っていたら、あいこさんは歯磨きをしに洗面所に去っていった。
あいこさんの雛人形は、おれが想像していた、そしてこれまでの21年間の人生で見てきたものとはずいぶん違っていた。真っ白なリアルめな顔に、たっぷりの髪の毛が生えている、そんなお姿を想像していたが、箱から出てきたのは、角ばってちょっと武骨ですらある、木製の雛人形だった。でも、手に載せてよくよく見ると、武骨に見えて木の質感はしっとりしているし、身体が角ばっている分、お雛様の顔がつるりとしていることがかえって際立つ。飾らない優しさとか素朴さみたいなものを感じた。
「こういうタイプの雛人形初めて見たけど、かっこいいし可愛いね」
つまんねー誉め言葉だ、と思う。でも、あいこさんはちょっとぽかんとした後、おれの目を見てにっこり笑った。「一刀彫」というやつで、木から一つ一つ手作業で彫るらしい。笑顔のあいこさんに説明されるのは、Wikipediaから知識を得るのとは全然違う。毎回こうやって教えてくれりゃあいいのに、と思うけれど、多分おれには分からないツボと言うものがあるんだろう。
居間の片隅の小机に、木製の三段のひな壇を載せ、お雛様は右だ左だ、三人官女の座ってる子はどこだとか、ネットで検索しながら並べていった。
レトロといえば聞こえがいい、模様の入ったガラス窓から光が差し込む。それが、一刀彫りのお雛様に、普通の、布の衣を着たお雛様には出来ないだろう陰を作る。陰は、このお雛様は確かにここにいる、ということを教えてくれているような気がする。簡単に言ってしまうと「存在感」なんだろうけど、それもちょっと違う。おれは、自分が簡単に言葉に置き換えられない感覚に触れたのだ、ということに驚いた。
同じく木で出来た雛壇にお雛様を置く時に、コトリと音が鳴ることもまた、確かにここにいる、というお雛様の小さな主張みたいだ。それは、この古い家で、仕事もリモートワークで、堅実にひっそり暮らすあいこさんに似てる気がした。今感じた気持ち、これは多分、愛おしさというやつだ。
茶色いひな壇とお雛様はぱっと見地味だけど、着物の模様を描いた赤や緑の絵具がその分鮮やかに見えた。それに、ワントーンで統一しているのが、洒落たインテリアのように部屋にしっくりとなじんだ。
「あいこさんは、いいお雛様持ってんなぁ……」
独り言みたいに呟いてしまったら、あいこさんは
「そう。子どもの頃は分かんなかったけど、いいお雛様なんだよ」
と、同じくらいの静かな声で言った。
あいこさんの年中行事への熱意には大分ムラがあった。3月3日、おれたちの手元には、京都の煎餅屋からお取り寄せしたこだわりのひなあられと、八海山の大吟醸があった。ちらし寿司の材料を買いにスーパーに行き、あいこさんは10分ほど悩みに悩んで、
「でぇえい!」
という掛け声とともに、いくらとハマグリをカゴに入れた。普段のあいこさんなら、魚卵という括りでは一緒だとか言って、明太子で代用しそうなものなのに。絹さやと菜の花を何の躊躇もなくカゴに入れた時は、おれが声を上げた。
「あいこさん、菜の花これ398円だけど分かってる?」
「逆に君は、菜の花の価値いくらだと思ってる?」
「100円くらいだったら嬉しいなぁ」
話にならん、と言いたげな顔で、あいこさんは卵売り場に向かった。
帰りの車の中でおれたちは、夕飯の支度の役割分担について打ち合わせした。おれの役目は、米を炊き、ハマグリのお吸い物を途中まで作り(仕上げはあいこさんがする)、菜の花と絹さやを茹でること。酢飯を作るところからは臨機応変に共同作業で、と言い渡された。普段、こんなに綿密に打ち合わせをして料理するなんて、ありえない。そもそも、二人で料理することだってまぁまぁ珍しい。いつも夕飯は各自が自分の生活時間に合わせて作るなり買うなりして食べ、おかずが多めに出来たら融通しあう。今日の入念な役割分担は、あいこさんの「ちゃんといい食材かったんだからポテンシャル限界まで引き出すぞ?」という熱意の表れだ。おれは今日は助手に徹するぞと誓った。
米と水を入れて炊き始めようとしたとき、あいこさんが横からスッと、羽釜の中に5センチ四方の昆布を入れた。これ何? と聞きそうになったけれど、どう考えても「旨くする」ための行動だろうし、あいこさんにそのメカニズムを聞かれてると解釈されたら厄介だ。あとで検索しよう、と、5分後に忘れるたぐいの誓いを立てた。
いつもは味噌汁を作る片手鍋に、今日は水とハマグリを入れて火にかけようとしたところで、またあいこさんは横からスッと、5センチ四方の昆布を入れた。
「昆布出汁、珍しいね」
「まぁ祭りなんで」
雛祭りから雛を取ると、なんだかワッショイ感でるなぁとボーっとしていたら、ホラ火かけて、とせかされた。鍋の中が温まるにつれ、少しずつ水はもやがかかったように白くほのかに青くなっていく。それは、小学生の時に日食の観測をしたときに初めて見た、コロナのようだった。あいこさんが鍋を覗いて
「貝ってなんで煮るとお湯が白くなるんだろうね」
と言った。
「いや、あいこさんが知らないことをさ、おれが知ってるわけないじゃん」
と返すと、あいこさんは、そんな風に思ってんの? と心配そうな顔で言ってきた、それがすごく意外だった。
「あたしが知らないこと、君が知ってるってこともあるでしょう」
「例えば?」
あいこさんはしばし流しの向こうの窓を見つめ、その後冷蔵庫を開けて卵を取り出した。例えば? ともう一度繰り返したけれど、おれは、あいこさんが具体例を挙げられなくとも、そう思ってくれていたという事実が大事だと、気付いてもいた。卵を溶く規則的な音が、米を炊くベース音の上に乗っかる。薄く煙が上がるくらいに熱した玉子焼き機に、あいこさんが卵を流し込んだその音は、シンバルみたいに台所に響いた。卵はあっという間に黄色いハンカチのようになり、まな板の上に寝かされる。あいこさんは何度かそれを繰り返し、重なった卵焼きを軽く二つに畳んで、端から細く切っていった。包丁を隔てて右側に、ふわふわの錦糸卵の山ができていく。おれは言った。
「あのさ、寝転んでさ、この卵を顔の上に載せたら、良さげじゃない?」
「良さげじゃない」
「ふわふわだよ?」
「変なフェチっぽさ出さないで。同居人が錦糸卵フェチとか気まずい」
笑いながらあいこさんは言ったけど、おれには一つの単語がやたら響いていた。同居人、かぁ。そりゃそうか。って。それは言葉にせず、
「いいじゃん、めぐりズムだよ」
とヘラヘラしながら言った。おれはきっと、こういう時のために普段からヘラヘラしているんだ。
いくらかの試行錯誤を経て、おれたちの住む家の居間には、いくらの載った五目ちらしとハマグリのお吸い物、そして缶に入った色とりどりの雛あられが集まった。
五目ちらしを口に入れると、酸味が少し飛んだ甘めの酢飯の上で、いくらがはじけ、酢飯を塩辛く包む。錦糸卵が上あごを優しく撫でてくれて、何も味付けしていないのに不思議と甘くて、やっぱりこれはめぐりズムいけるぞ、と俺は確信した。よき頃合いで、ビールを流し込む。いや、五目ちらしってさしてビールに合わないし、よき頃合いも何もないんだけど、今日は祭りだから。
五目ちらしを平らげたあいこさんは、雛あられで日本酒を飲み始めた。
「いいの? 雛あられってツマミにしていいやつ?」
「白酒飲むのと一緒でしょ。全員米から出来てる。同窓会みたいなもんでしょ。雛あられ、形可愛いだけでさ、十分ツマミとしていけるからね?」
日本酒なんて、あいこさんのお付き合いでしか飲まない。美味しいけど、酒飲みたい気分と甘いものを飲みたい気分が、おれのなかで交差する瞬間があんまりない。ちいちゃいおちょこでちびちび飲むのも、なんというか、解せない。だけど、今日は祭りだから。
「なんかさ、日本酒って意外と回るの早いんだね」
「先にビール飲んだからじゃない? 後で水いっぱい飲みな、翌日残りやすいから」
酔いが回っていることを図らずもアピールしたおれは、勢いで聞いた。
「ね、おれって必要?」
最悪だ。勢いにもほどがある、ほんと最悪。あいこさん今日深酒しないかな、すべての記憶をすっ飛ばすくらいに。ドン引きしているそのお顔を一応確認しようとあいこさんの方を見た。
「え、またそれー?」
「また、ってどういうこと」
「君一定量飲むとそれ繰り出してくるよ、覚えてないのかもしんないけど」
思わず、しみじみしてしまった。そうか、おれ結構な回数これ聞いてたんだな、そしてその上で翌日も変わらず、適当におれと生活してんだなこの人は、と。あいこさんは徳利を傾けながら続ける。
「毎回何か適当にいなして終わってんだけどさぁ」
「陳謝します」
「今回は雛祭りバージョンにしとく?」
そう言って、一刀彫のお雛様を指さした。
「あの子たち、生活必需品じゃないじゃん。でも、かわいいよね」
あいこさんはそう言って、おちょこの中身をくっと飲む。それは、はいおしまいの合図だ。
雛人形を飾った日の、滑らかな木の感触や、確かにここにいるという感覚、日の光を浴びた陰影を思い出す。それと、いとおしさも。お雛様たちは、しっくりとこの家に馴染んでいる。
おれはおちょこを置いて、あいこさんの方に50センチ寄った。
あいこさんは、おれと逆側に40センチ身体を傾けた。2人とも、何も言わない。おれは再度もう20センチ身体を寄せ、あいこさんは立ち上がり、台所に皿を持って行った。
あいこさん、すべからく、おれに優しくすべし。これ、用法合ってる?
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