書き散らし
何ということもありませんが、キーを叩きたい気分になりました。タイムラインにやたらと知人のnoteが流れ来るからかもしれません。
キーを叩きたい。言葉を綴りたい。欲望だけの見切り発車で始めた文章が、2段落めにして早速頓挫しようとしています。たとえば自己紹介を書こうといったって、それが私の苦手分野なのは誰に言われずとも分かっているんです。著者ページにも置けないくらいに苦手。だって、何を語れって言うんでしょうか。半濁音まみれの四文字名前。出来たてほやほやの浪人生。あなたにSCP-4231を読んでほしい。文字を読むのと書くのが好き。山尾悠子が好き。吉野朔実が好き。天青石が好き。ツイートという行為が苦手で、最近は専ら事務連絡兼はなまるおばけRTbotと化している。これではいけない、と思って何か呟こうとする。虚空に叫ぶよりも誰かに宛てる方が魅力的に感じて、discordに向かう。暫くしてTLの濁流に戻ってくる。見知ったアイコンたちが何やら盛り上がったり荒れたりしているのを静かに見つめる。ふと、流れに紛れて漂っていたはなまるおばけと目が合う。今日も穢れなく愛くるしくて、きみを見ていると世界を愛せる気がするよ。ハートマークを紅色に染めてから、そっとRT。拡散手段というより、これは儀式なのだ。気持ちを満たして、スマートフォンの電源を落とす。
私は何をしているんでしょう。分かりきっているのは、話が逸れに逸れたということ。
それで結局、何を書けばよかったんだっけ。
この義務感が良くないのかもしれませんね。精々好きに書いてみるとしましょうか。
あのね、私はね、呼名って、暴力だと思うんです。夜空の星をふたつ結んで、それをこいぬと呼ぶことのように。認識の固定化。輪郭を外縁からなぞって、ある側面だけ切り取って。「SCPopepape」は決して私たりえないし、世界のすべてはきっとそう。人と人の関わりはそれ自体が既にある種の暴力。無遠慮にも虚像を押し付けあって、本質なんて誰にも見えていないのかもしれなくて。でも暴力って、うつくしくもあるんですよね。自分本位に、相手の何にも見えないままに、夢をみているあなたは物語の上にあってはどこまでも綺麗です。
そしてその論理を適用するならば、自分語りとは自傷行為ですね。だって、自分に自分が理解できているなんて保証はどこにもありませんから。自分の在り方を規定して、組み上がったジグソーパズルみたいに固めてしまって。或いは生傷にナイフを突っ込んでぐじゃぐじゃと掻き混ぜるみたいに。
けれどもその傷口の中身は氷砂糖だったりして。だからあなたの文字列が甘くて、ちょっぴりかなしくて、やっぱりさみしくて。だから私はあなたを。あなたは。あなたが。ところで、誰なんでしょうね?あなたって。今この記事を読んでいる「あなた」(そこにいますか?私には「あなた」の実在性すら分からないや)のことでは断じてありません。私の空想の中に居る、誰でもあって誰でもない誰かをあなたと呼びたいだけなんです。曖昧な感傷と憧憬との入り混じった心を抱きしめて、ねえ、私、あなたのことが結構好きなんですよ。これはつまり、世界のことが結構好きだということです。たぶんね。そうだったらいいな。
自分を切り売りしてしか物語が書けない性質なので、私はときどき自分語りが怖くなります。自分の奥の方にある思想とか哲学とかそういった名前がつきそうなものを引き摺り出して、それを核に置いてそうっと膨らませていく方法でしか物を語れないから。こんな形でそれらを消費してしまって、外に出して標本みたいに固めているようでは、いつか私は空っぽになってしまうんじゃないだろうか。
恐ろしいので、引き摺り出すのは核になれるほど綺麗じゃない物にしましょうか。最近、大学受験に失敗しました。国公立前期一点がけだった上に高3の夏までは碌に勉強していなかったものですから、まあ理由は自明です。流石に受験を舐めすぎだ。そんなわけで生まれましたのが1年間のモラトリアム。高校生活が怠惰だったぶん一念発起してがんばろう、とは思ったものの、長すぎる空白が始まろうとする現実に思わず手が止まります。床に寝転んで天井の皺を数えているだけで45分が掻き消え、そのまま寝落ちして2時間がさらに吹き飛び、終わりがないみたいな退屈の渦の中。
やるべきことを探せば幾らでもあるはずなのにどうにも一歩踏み出せなくて、代わりに思考の矢印は過去を向く。自著のrateを初めて気にしました。それから、好き嫌いが分かれる作風だ、だの碌に宣伝をしていないからだ、だの無意味な擁護が頭を渦巻いて、そんな自分を醜いと思いました。自己正当化は醜い。こんな私は醜い。嫌いで、怖くて、消してしまいたいな。書きたいものを、うつくしいものを書ければよくて、誰かに気に入ってもらえれば嬉しくて、そんなスタンスを自認していたはずの私の心に刺さっていた歪鏡の欠片を見つけてしまって、それが堪らなく気持ち悪かった。
こうしてみると私は、誰かのnoteに触発されたんじゃない。何かを言葉で語ることで、硝子片の与えた痛みを塗り潰してしまいたかっただけなんですね。
だから、誰に伝えるでもないけれど、私、何かが書きたかった。呼吸がしたいのと同じように、思考を紡いで形にしたいと思いたかった。ううん、思った。そういうことにしておきましょうか。文字の上でくらい、やっぱり夢を見ていたいものです。
もう3月も終わりに差し掛かって、子羊みたいに穏やかに、やがて4月がやってくるんでしょう。冬を支配するつめたい閉塞があんまり心地いいので、私はたまに春の兆しが怖くなります。冬の早朝に吸い込むしめやかな寒気。飼い犬の口元から浮かぶ白煙。晩冬は穏やかに冷え切って、やがて残雪といっしょに溶けて消えてしまうもの。
一方の初春はといえば、生命の息吹に溢れて、新緑の匂いを全体に湛えて、この世の支配者気取りで咲き誇る。グロテスクなまでに誇示される美。
家の庭には桜の若木。新芽がすこしだけ顔を出していましたから、きっと彼にも春の足音が聞こえているのでしょう。明日の予報は雨降りだから、道路脇に横たわる惨めな残り雪の余命はあと半日もありませんね。雨滴がすべてを洗い流して、仕上げに虹でもかければ完璧。そうやってもたらされた春はきっと暖かくて、冬を愛するのと同じくらいに私は春を愛せるでしょう。樹から溢れるみたいな若草色。頬を撫ぜるのは柔らかな風。斜面に沿ってつくしが生えて、子どもが継ぎ目の当てっこなんかしていて。別れと出会いを繰り返しながら、世界は変わらず回り続けて。
だから、明日も世界はうつくしい。私がどんなふうでいたって、変わらず世界はうつくしい。
明朝もその次の日も呼吸を続けるためには、とりあえずはそれだけで充分なのです。たぶんね。そう在れたらいいな。
以上、私なりの祈りでした。