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蛮族700字文体シャッフル・アンコール テーマ『花』

SCPopepapeです。4月22日~4月28日開催の「蛮族700字文体シャッフル・アンコール」の主催をつとめていました。

本記事は反省文のような、思考整理のための言語化のような何かです。

遅筆が祟って、本家700が絶賛開催中の今になるまで形にできなかった時流遅れの文章ですが、公開すること自体に意味があるような気がしたのでこのようにNoteに投稿しています。

それでは。振り返りから参りましょうか。

全体振り返り

まず初めにKiygrさん、文体当て部門の優勝おめでとうございます!蛮族文体の混沌の中、14/22の好成績でした。すごい。

全体として概ね問題なく進められたかな、という感触です。
今回はスペース勢に配慮しての21:00中心の開催形態を取りました。イレギュラーでしたが、なかなか悪くなかったんじゃないかと個人的には思っています。

時間帯を把握していなくて提出できなかった方々へ: 今回に限らず、レギュレーションをきちんと読むようにしてくださいね。アレ、説明書なので。参加する上では読むべきものですので。

もうひとつのイレギュラーだったタイトル付与についても、上手く働いてくれたように思います。4番とか特に、効果的に使われてましたし。作品を構成する一要素としてタイトルを捉えている人間なので、読者としてもおもしろく読めました。

各票数の集計に関して、Burnin_A_GoGoさんにお手伝い(というかほとんどすべて)していただきました。その他、蛮族700字文体シャッフル・アンコールへ関わってくださったすべての方々へ、この場をもって感謝申し上げます。ありがとうございました。


真面目な文体企画の話はここまでです。ここから下は(主に自作についての)懺悔なので、物好きな方だけ読んでいただければ。

テーマ「花」

花。わたしが一定の思い入れと愛着を抱いているモチーフです。
それはたとえば、いちばん気に入っている自著がリリー×5000であることであったり、仄めかしとしての花言葉を使うのが好きであったり、自分の下の名前に要素として含まれていることであったり、川端康成の掌編を愛していたり、「さようなら、花泥棒さん」という曲が大好きだったり、SCP-4231の地上階が休業中の花屋であったりとまあ本当に色々な理由が積み重なっているわけですが、まあとにかくそんなような私情からテーマとして選んだわけです。

その上で、今回は。セレクションとして完全に間違えた、と思っています。もっとやりようがあった、とも。これはテーマを設定した側の問題です。

全体のクオリティが低かったと言うつもりはありません。平均的には高かったですし、おもしろいものも数々ありました。11の勢いとか、大好きです。けれど、テーマ選びとしては失敗でした。紛れもなく。当初は蛮族文体のテーマとして良いものだと思っていたのですが、ご覧の通りです。作風の平坦化を誘発してしまった。何を間違えたのかというと、答えは単純。蛮族の作品傾向を見誤まったんです。不得意分野だったとは……

まあ兎も角、テーマの設定理由についてお話ししておきましょうか。

今回の700字で没にした案があります。それはクオリティに対する自信の欠如であったり、読者に伝わらないのではという懸念であったり、その他いろんな理由が絡み合ったからなのですが。わたしの花というモチーフの捉え方が言語の上で表出したものでもあるので、資料としてここに載せます。

「花のように生きたいの。」
君の口癖だった。幼い時分からずっと、君を近しく知っていた。

花はうつくしい。自らの利益のためにうつくしい。野原で、山で、人造の庭で、気高いまでに咲き誇る。他者の目を惹き誘うこと。香りで以て惹きつけること。存在すべてに美を懸けて、遍く花は咲き誇る。

「花のように生きたいの。」
実際、君は花だった。少なくとも俺にとっては。

花は象徴だ。多層の意味を孕んでは咲うものだ。人間は幸福を見出し、希望を夢見、不吉を感じ、それでも花はただ咲くだけで。

数多の花に囲まれて、それらすべてを切り売りして暮らそうとする君はどこまでも笑っていて。

「花のように生きたいの。」
咲き誇るのを止めるべきだった。無理にでも止めるべきだった。

そんなことができるなら、いまここにはいないんだろう。

花は虚飾だ。生殖の暗喩。グロテスクにしてエロティックな生命の根源的噴出。それを美と崇め尊び自らを飾る糧とする人類。然れど花は人類の為には咲かず、元々眼にすら映してはおらず、もっと違うものへ、どこか遠くのものへ、何も知らない自分をここに置いて。何を惹きつけようと?

だから、だからだ。君を。俺は。この手で。

「花のように生きたいの。」
もう君が聞こえない。残り香だけが、いつまでも俺を蝕んでいる。

SCPopepapeの脳内より抜粋

わたしにとって、『花』というテーマはこのような多層性を内包するものでした。人間が好き勝手に印象を仮託する対象。綺麗なだけではないし、別に人間のために咲いているわけでもなくて、ただそこにあるもの。そこに何を読み取っても自由です。何せ花は何も言いませんから、あなたが感じ取ったことがすべてなんです。

だからこそ、造花を花として見ても、枯れた花にかつての美を幻視しても、可憐な少女を一輪の花と喩えたって何の問題もない。花はうつくしさ以外の何も保有しないかもしれない。あるいはうつくしささえ持ち合わせてはいないかもしれない。

わたしとあなたが同じ花を見ようとしても、きっと視界に写るのは同じ物ではありません。幼い頃に草取りを任されたとき雑草と間違えてマリーゴールドも一緒に抜いてしまったわたしは、いまでもマリーゴールドを目にするたびにすこし苦々しい気持ちになります。太陽に照らされて咲き誇るのがいっとう似合う花でした。鮮やかなオレンジ色でした。

きっとこんなふうに、わたしたちが見る世界というのはわたしたちの哲学や過去の経験やがたくさん積み重なって構成されたもので、だからこそ視界を共有できないわたしたちが言葉を用いて理解し合おうと試みることに意味があるはずで。

そんなふうな価値観の共有ができていると思ったんです。自由度のあるテーマだと。たくさんの意味を重ねられる花について、多くの人が語っているのを並べることに意味はあると。

『虚花園』

それを踏まえて。自作はNo.3でした。

永遠の果てまで続くかのような、白い花の海を歩く。疲れはない。欠乏も。

ここには何もない。

乾いたような香りだけがどこまでも漂っている。


咲き乱れるは罌粟の花。いつだったか飼い犬と共に別の世界に飛ばされてしまった少女──名をドロテアとかなんとか云ったか──が眠り込んでしまいそうなほどの。いいや、違う。あの物語の花は赤かったんだったか。

詮ないことだ。私はあの少女ではない。あの少女にはなれない。

脚が勝手に動く。頭だけは妙に冴えている。ただ、歩き続ける。ひとり。

たしか、かつてはこうではなかった。私を夢みたひとが、私を語って輪郭を描いて描き尽くそうとしたひとが、私を形作ろうとしたひとが。いた筈だけれど。

そうか。あなたは死んでしまったのか。何も残さずに。

だからどこにも道がなくて、思い浮かべてくれる人もいなくて。ひとり、彷徨って。終にたどり着く場所さえどこにも用意されていない。


酩酊などない。正気の定義がないから。

忘却されない。存在しなかったから。

停滞できない。進んだことがないから。

私に終わりはない。始まれなかったから。


休むことさえできず、花の雪原をただ歩き続ける。終着駅はない。どこにも続かない。

やがて、肢体が輪郭を喪失する。自他境界が次第に曖昧さを増し、周囲との区別がなくなる。

誰もすくい上げることがなかった意識が、誰にも知られることなく消えていく。ねむるように溶けていく。


永遠の果てまで続くかのような、白い花の海。ここには何もなかった。

乾いたような罌粟の香りだけがどこまでも漂っている。

蛮族700字文体シャッフル・アンコール

お察しの方も多かったでしょうが、これは消えゆく物語の話です。あるいは消えゆく物語の登場人物の。序盤で言及される『オズの魔法使い』は、"私"が決して成れなかった出版され愛された物語。作者が死んでしまったために居場所だった脳髄すら失った非存在たる"私"を、酩酊街すら掬い上げません。白い罌粟──花言葉は「忘却」「眠り」──の花畑を歩いて、やがて"私"は世界から消えてしまいます。その消失を、存在していた過去を、誰も認識しません。何もなかったんですから。

そんな話でした。評価としては可もなく不可もなく、といったところでしょうか。いつもの自作と感触は変わりませんでした。好きな人は好き、みたいな。

当然ですよね。だって、言葉選びと雰囲気作りだけで700字を書いている自覚があります。表面上の響きの綺麗さで包んで覆い隠して、ある種読者を煙に巻くような。初参加回からずっと、そうしてきました。これからもずっとそうでしょう。そのような物しか書けませんし、それでいいとも思っています。

読後感がすべてです。最後に読み手に与える印象が。すう、とただ熱の引いていくあの感じが。読み終わった後に抱かせる感情も引っ括めて作品だと思っていますし、だからこそ捉えどころのない文章にしたんです。白い花畑を歩く情景以外の何もない文章に。

けれど、今回は。今回だけはこの作品で出るべきではなかった。

なぜかって、この作品は花を漠然とした象徴としてしか扱っていないんです。咲き乱れる白い罌粟の花は、たとえばどこまでも降りつむ白雪でだって代替可能でした。花である必要性が完膚なきまでに欠如しています。

「花」というテーマを単に与えられた側の、参加者の作品であればこの扱いも許されたかもしれません。しかし、今回のわたしは主催、テーマを決める人間でした。そいつが自作としてこれを出しておいて、「蛮族の作品傾向を見誤まったんです。」とか言っていること自体おかしいでしょう。

もっと白い花の海の必要性を保証した作品にするべきだった、あるいは自分の持っている「花」に対する考えを前面に押し出すべきだった。

自分で出題した「花」というテーマにもっと向き合えばよかったな、という後悔だけが跡を曳いて、脳裏の片隅にいつまでも留まり続けています。

終わりに

というわけで諸々の失敗はしましたが、わたしはやはり「花」が好きです。

世界には言葉だけでは言い表せないものがたしかにあって、それでも言葉に切り分けて理解しようとし愛おしもうとするのが人間だと思っています。傲慢な行為だし、きっとそんなことしなくたって生存し続けることは可能ですが、それでもやるんです。

ある意味で、言葉だって花と同じです。言葉について語る手段を言葉しか持たないわたしたちは自己言及という縛りの中でしか話ができませんが、それでも言葉は花と同じだと言えるでしょう。何かを重ねる象徴であり、それぞれ重ねているものが違って、あなたが世界をどのように見ているかの証左になりうるもの。うつくしいし、うつくしくないし、それがすべてです。

と、まあ長々と書いたわけですが。このように思考を言語化することはある種中毒性を孕んだ危険な行為だとも思うわけです。言語化、気持ちいいです。満たされます。すべてがわかった気になります。けれども事実、わたしが見ているわたしなんてわたしの一側面に過ぎません。自分のことを語るということは内側の輪郭をただなぞっているのと同等でしかなく、外側がどのように広がっているかについて把握することにはならないんです。

じゃあ何ができるかって、わたしは物を書くという手段しか保有していません。なので、また書き続けるしかないんでしょう。

わたしと同じものが見えていない他者に思考や思想や哲学を理解してもらえたとき、その人の心に直接触れられた気がしてうれしくなります。上手く伝えられないときは、上手に呼吸ができない時と同等の息苦しさがあります。

今回の700は失敗しましたが、収穫は、気づきは、たしかにありました。だから、次も書きます。まず今日中が〆切の本家700字、投稿期間の終了が迫り来るショートコン。機会は尽きません。

次こそは満足の行くものを書いて見せます。きっと。


最後に、ここまで読んでくださった物好きなあなたへ。お付き合いいただきありがとうございました。わたしはまた何か書くと思うので、そのときはよろしくお願いしますね。

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