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中東の歴史かんたんなまとめⅢ イスラエル②ユダヤ移民の流入

中東史について書いてみる。備忘録と、日々徹底抗戦するイスラエルを深く理解するために自分の学びのためでもある。英語で学んでいるので皆さんが日本の書物や学校で学ぶものと解釈が違うかもしれないが、サマリーを数分程度で読める形でライフワークとして展開し、たまたま読んで下さった方々に伝われば嬉しい。


1880-1950年代
オスマンパレスチナに押し寄せたユダヤ人の波紋について

まずはどれくらいの人数がパレスチナに入ってきたか比率で見てみると。

100年前 100人のムスリムに対し1ユダヤ人の比率
1918年には に10人ムスリムに対し1ユダヤ人
1948年までには大体 同数

というわけで、恐ろしいユダヤ人の流入が起こった。
20th century , Jewish resettlement lasted six decades - ultimately resulting in creasion of a Jewish homeland. 20世紀のユダヤ人の再定住は60年続き、最終的にユダヤ人の祖国が誕生した。

最初の頃は大分違っていた

When first arrived in the late 19th century they never imagined that the end result would be an independent nation.
This wasn’t an original goal. Instead, they hoped to occupy a semi-autonomous region under the ottoman Muslim Turks which had housed Jews escaping the Spanish inquisition 400 years earlier.
19世紀後半に初めてやってきたとき、彼らは最終的な結果が独立国家になるとは想像もしていなかった。
これは当初の目標ではなかった。それどころか、400年前にスペインの異端審問から逃れてきたユダヤ人を収容していたオスマン・トルコ支配下の半自治領を望んでいたのだ。

シオニストリーダーのヘルツルはオスマン帝国2代目スルタンのアブドゥル=ハミド2世に個人的に何度も嘆願している

ヘルツルはイスタンブールまで何度も出向きユダヤ人入植について認めてもらおうとしたが、何度も拒否されている。

Osman Palestineオスマン帝国内のパレスチナについて、設楽先生の論文の中で詳しくヘルツルがオスマン帝国スルタン、アブドゥル=ハミド2世にユダヤ人国家の自治権を求めたが、何度も拒否された苦労について書かれている。『史苑』1996年3月号に。『オスマン帝国末期のユダヤ教徒問題』 設楽國廣 pdfがインターネットで読めるので検索してみて下さい。


オスマン帝国はOsman Palestineにユダヤ人の自治区を認めたわけではない


前回オスマンのイスタンブールはパレスチナから1000マイルも離れており、ユダヤ人の入植については大丈夫だったと書いたが、実際は長い道のりだったようだ。

理由は オスマン帝国内に居住するユダヤ人に助けを求めるが彼らはパレスチナに移住する必要がなかった

  1. 大都市において商業活動や、その他の業種に商業としとして機能を十分にないパレスチナに移住する必要はなかった。(設楽先生論文p.51)

また何度もイスタンブールまで行き話し合いを設けたが、スルタンに拒否された理由は

  1. He wanted to cultually lift up the region and take it up and take the people from backwardness to more enlighted civilizaion of what he perceived Ottoman Turkish civilization to be all that to say スルタンはこの地域を文化的に向上させ、後進国からオスマン・トルコ文明をより啓蒙的な文明へと導こうという思いがあった

  2. 銀行家ロスチャイルドが財源を使い、ヨーロッパ列強から受けている借款の肩代わりする交換条件、またオスマン帝国内のユダヤ人の結集によりスルタンへの寄付等行ったが、交渉は上手く行かなかった

だが、好転したきっかけは、

  1. 1904年頃からアブドゥル=ハミド2世の専制政治に対抗する組織が成立し、そこに食い込み、ついにパレスチナでユダヤ教徒の移住権、土地を購入する自由を認めさせた(設楽先生論文p.56)

  2. しかし何度も赤いビザ(巡礼だけを認める)制度に戻ったりもした

Palestinian nationalism conceived of today is what existed this time. 今日考えられているパレスチナ・ナショナリズムは、この時代にも存在したものである

その後、ポグロム(ユダヤ人いじめ)により、東ヨーロッパやロシアの多くの人はその後アメリカに移住した。

アリーヤー

Aliyah, Described returning to homeland as “Aliyah”
アリーヤーとは彼らの世界に帰るという意味のヘブライ語である。 which means this world goes back to actually the first wave of first migrants the Babylonian empire as captivity after the Babylonians were concord by the Persians.  Persians permitted a number of Jews to return to Jersalem. バビロニア人がペルシャ人に併合された後、捕囚としてバビロニア帝国に移住した最初の頃に遡る。 ペルシャ人は、多くのユダヤ人がイェルサレムに戻ることを許可した。祖国へ戻るというアリーヤーの考え方は、ユダヤ人がさまざまな方法で祖国へ戻ることから生まれた。彼らは城壁を築き、ユダヤ人国家を再建した

第一アリーヤーから第四アリーヤーまで


First Aliyah: 最初のアリーヤーは
1882-1903年
35,000 arrived Ottoman Syriaオスマン帝国シリアに35,000人
Established agricultural communities農業国を形成した

2nd and 3rd Aliyah第二第三アリーヤーは
1904-1923年
80,000 more from Russiaロシアから80,000人以上
After WWI第一次世界大戦後

4th and 5th Aliyah第四第五アリーヤーは
Up to 1936年までに
350,000 from Hungary, Poland and Germay350,000人がハンガリー、ポーランド、ドイツから入った

ヘブライ語の再生が始まり学校が設立された

読み話し言葉としてヘブライ語が蘇った。Yiddishイディッシュ語に対抗して。バビロン捕囚以後ユダヤ人はヘブライ語を多くは話し言葉として活用してこなかった。 ヘブライ語は学者や聖職者、宗教指導者の間で使われていた。So the language whould be taken from disuse for 2500 years and to come back into use is very interesting. 2500年もの間、使われていなかった言語が再び使われるようになった。

おわりに


まずヘブライ語ががまた仲間同士で話せるのは嬉しかっただろう。もしも、日本がこのまま弱小国となり、中国に吸収され、この後何百年もかけて日本語を話す人がいなくなったら悲しい。しかし言語が滅びるのは簡単かもしれない。(余談だが、以前シンガポールに住んでいた時、中国人で中途半端な英語しか話せいない人は沢山いた。彼らが自国に愛着を持ってるようには見えず、シンガポールが大好きなシンガポール人の人達ではあったが、言語に関しては、下手なシングリッシュで薄っぺらい感じは否めなかった)。

パレスチナ内のユダヤ人自治区で彼らは十分感謝していたとしても、遠慮しながら学校も作り、ヘブライ語で授業を行い、元々が優秀過ぎる民族だ。しかも迫害の歴史の結果、人一倍サバイバル能力に長けていたから、どんどん発展するのは当然の結果だろう。私達、一般社会に置き換えても理解出来る。苦労人の方が(勿論才能、頭脳、センスがあればだが)恵まれたお坊ちゃん嬢ちゃんより遥かに強い意志で逞しく行動する。苦労の多い人生の中で落ちるところまで落ちたら上がるしかない。その後は深く考え妥協なく次の行動を取り強い人生観が築かれ、ボヤボヤしてる暇などないし、子ども孫に対しても野垂れ死にされては困るから徹底的に深く考えろと育てるし、圧倒的理念がそもそも一般の人達とは違う。生き抜くために絶対に妥協しない集団だからこその今なのかな〜。頼むからガザやそれ以外の攻撃はもうやめてほしいですけどね。またご意見がありましたら教えてください。



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