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中東の歴史かんたんなまとめ イスラエル③西洋との関係

この土地は誰のものなのか? 1917-1948


入植者の視点から
この土地は誰のものなのか?と聞けば
「私たちは古代のイスラエル民族であり、何千年も前に神から約束されたものだ」と主張するのに対し、パレスチナ人は「自分たちは何世紀も前からこの土地を耕し、農耕し、居住してきた。だからこそがこの土地の正当な権利を主張しているのだ。」と言う。

Who owns the land?
Would argue that well we are the ancient nation of Israel and we were promised by God thousands of years ago whereas Palestines argue that they had been cultivated and farming and inhabiting this land for centuries and and acknowledged by Ottoman Empire and other governments. So they are the ones who have proper claim to the land.

解説:パレスチナ人は、パレスチナ地方に居住するアラブ人を独立した民族として捉えた場合の呼称。イスラエルは、パレスチナ人を指してもっぱら「アラブ人」を用いるが、民族的に「アラブ人」と同一であっても、ユダヤ教徒なら宗教的には「ユダヤ人」と呼ばれる。

イギリスはユダヤ人とイスラム教徒の仲裁を試みた


The British tried to mediate between Jews and Muslims but ultimately failed. And while the middle easterners westerners support Israel comes at their own expense.


  • 近代イスラエルは第二次世界大戦以降英国委任統治となる

  • 最初十字軍が1191年に派遣した時、非イエルサレム勢力が支配した

  • 英国はシオニスト運動を支援した

イギリスはユダヤ人とイスラム教徒の仲介を試みたが、結局は失敗した。そして、中東の欧米人がイスラエルを支援する一方で、アラブ住民の幸福を損う気はない。だから仲介する。彼らの平穏な生活は、イギリス人自身の犠牲の上に成り立っている。との記載があるがががが、それってどうなの?

日本ではイギリスの三枚舌外交と表現されることが多いが、ユダヤとアラブの間を取り持っているのは
彼らで、彼らの犠牲の上で成り立っているとの記載だ。そして、one caveat. They didn't 
want to compromise the well-being of Muslim inhabitants
「英国はシオニスト運動も支援したが、イスラム教徒住人の幸福を損ないたくなかった」

.父から子へと受け継がれる世襲的な土地、あるいは一般的な土地所有権の考え方があるが、耕作すれば、その土地は自分のものになる。 その結果、上流階級は土地を自分のものとして登録することができるようになった。では、実際に耕作していたのは誰だったのか。

Their absentee landlord was selling to a Jewish settler. Without their invovement whatsoever.
不在地主はユダヤ人入植者に売却した。彼らの関与なしに。

所有者となる見込みのある人たちと住民の間で交渉が行われたのではなく、それらの主体の外側で行われたのだ。 所有希望者と住民の間の交渉ではなかった。代々家族で農業を営んできた人が突然土地を追われ目的を持った外国人に渡されたのであり、突然土地を追われ、恨みを買う。土地を追われた人々の多くは、ユダヤ人に対する暴動に加わった。

1929年のヤッファ暴動、1929年の英雄虐殺、

Jaffa riot in 1929 the hero massacre of 1929 and they have to do with Palestinians displaced or landless due to settlers of their land.、入植者が彼らの土地を奪ったために土地を追われ、あるいは土地を失ったパレスチナ人と関係がある。土地を失った者はmilitant organization 武装組織に入った。

.土地の調達は怪しげな前提で行われた。 何十年もの間誰がその土地を所有するのかが大きな問題であった。


1917 バルフォア英国外務大臣、パレスチナにユダヤ人の祖国を建設することへの英国政府の支持を表明

The Balfour declaration1920 イギリスがオスマン・シリアから分離独立した国家を創設その一部はパレスチナ、あるいは現代イスラエルで構成されていた。
パレスチナの委任統治は、独自の国家として機能するまで英国が監督することになっていた。


地元のアラブ人は不満だった
英国に騙されたと思った


1915年にエジプトの英国高等弁務官から独立した祖国を約束されていた。
アラブ指導部はユダヤ指導部との協力を拒否 refused to in any institution that include Jewish leadership making the development of a Jewish Arab Palestine state enourmously difficult. ユダヤ人アラブ・パレスチナの国家建設を極めて困難なものにしている。 結局のところ、一度自分たちを裏切ったイギリスと手を組めば、また同じことが簡単に起こり、さらに疎外された状態に陥る可能性があると考えたのだ。

Arab Revoltアラブ反乱


ヨーロッパやロシアから来たユダヤ人への反発が募りアラブコミュニティ故郷の支配権を無くし、その不満は1920年に沸点を迎える。何十年も自分たちの土地を奪ってきたユダヤ人に対し反乱が起きる。


第二次世界大戦


ヒットラーの台頭によりパレスチナにユダヤ人が流入
イギリス軍ユダヤ人支援成功
イギリス軍によるパレスチナ人武装組織リーダー殺害と人口動態の変化(ヒットラーの件でユダヤ人住民が激増した)が重なり、アラブ人コミュニティの反乱を引き起こす
アラブ5000人が死亡10,000人負傷(ユダヤ人は400人死亡のみ)

英国の仲介は失敗


英国はアラブとユダヤの共存は不可能であると気付いた
土地のさらなる分割が必要
ユダヤ人の人数制限をおこなった
1939-1944 年間15000人
Britain refused to alter the quota even in the face of holocoast イギリスはホロコーストに直面しても、割り当てを変更することを拒否した
250,000ユダヤ人の避難民

1940年代にパレスチナにいるイギリス軍をユダヤ軍が攻撃


Faced with the hundreds of death of their own people the British decided to British decided to suspend of emigration mandate 何百人もの自国民の死に直面したイギリスは、移住の一時停止を決定した。




1948年5月、イギリスがパレスチナから撤退

Britain withdraw from Palestine in May 1948
The United Nation voted to Partition Palestine
Separate Jews and Arab states
国連がパレスチナ分割を決議
ユダヤ人とアラブ人の国家を分離

イェルサレムは国際領土とす

ユダヤ人は決議を歓迎、アラブは拒否

アラブとシオニズムの対立になすすべなく一方的に撤退、ナクバそしてパレスチナ難民と続きます…

それではそれでは〜


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