小説「大地に落ちる汐の思い出」(連載第1回)
その人について思い出すとき、もっとも古い記憶として、私が手を引かれて家へと招き入れられた日が浮かんでくる。思い出の中では季節は遅い春がやってきたばかりで、少し冷える風に吹かれて背を縮める私にとって、握る手は温かかった。しかし覚えているがその温かい手はまだ馴染みのないもので、私はおっかなびっくりで握っていた。
初めて見た自分の家となるところは、趣のある古い屋敷だった。私たちはその門をくぐり、表庭を進んでいった。ツツジの庭木や松が植えられていた。桜もあったが、まだ咲いてはいなかった。年月が色をつけた建物の黒い質感は重厚な雰囲気を醸していて、中に入った私は周囲の家々より一回りも二回りも大きいその姿に圧倒された。
もっとも子供の私でも、表向きの立派さの中に綻びは見えていた。飛び石は割れているものがあり、もうどこかに片付けられて穴になっているところもあった。また、いくらか刈ったり抜いたりした様子は見られたが、雑草も目立った。家に目を向けて仰ぎ見ると、屋根のトタンがずり落ちているのも見えて「立派だけど、おんぼろだ」という印象を持った。
痛んでいたのは事実だった。玄関を抜けて中に入ると畳は擦れているし、歩く場所によってはふかふかと沈み込んだりもした。台所は長年の使い込みのせいで油汚れが残り、立て付けも悪くどこか斜めになっていた。ドアなどはトイレにしかなく他は全部障子などの引き戸で、間取りには時代ごとに増築されてきた形跡が見られた。それは私に垢抜けなくて不格好だと思わせた。もちろん、立派な部屋は立派であり大事なところは大事にしているのだろうけれど、それは同時にすべてには手が回っていないことを意味していた。
家を一回りして、最後に私が暮らす部屋に案内すると言われた。その部屋の障子を開けると一人の男の子と目があった。座卓でノートに向かっていた彼はきょとんとした顔で私たちの顔を交互に見た。
「誰ですか、先生」
彼がそう聞くことで、今まで手を引いていた人が先生であると私は知った。
「今日から一緒に住むものだ。仲良くしてやってくれ」
「わかりました」
どんな顔をするのかと緊張したが、彼はやさしく、うれしそうに微笑んでくれたので安心したのを覚えている。部屋に二人きりになると彼は私に近づいてきて、興味津々な様子で言葉をかけた。
「名前は? どこから来たんだ?」
名前はわかったけれど、自分がどこから来たのかは皆目わからなかった。
「そうか、まだ小さいからな。わからないかもな」
私はまだ人の年齢を読む力がなかったのだが、彼は五つほど年上だと教えてくれた。そして、自分のことは兄だと思ってくれと言った。
「兄貴でも兄さんでも呼び方はなんでもいいけどさ。弟ができてうれしいよ」
それから兄は、先生とこの家についていろいろと教えてくれた。
次回へ続く
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