短編小説「あの日のコーヒーに口づけを」上
「ねえ、ママ」
二人だけしかいないコーヒーショップで、店主のママに話しかけた。静かな店だが、今日はさらにしんとしている。時計の針がいつもより大きく鳴っている気がする。二時を過ぎたところだった。私は借りたタオル――来る途中で急な雨に降られた――で、湿った髪をたたきながらいった。
「今日もあれ、お願いするよ」
「わかってますよ」
ママはそういってお湯を沸かし直した。
それから、
「あとで食べて」
と、小さな焼き菓子を皿に出した。私は「別に今だっていいだろうに」と思いながら、待っておくことにした。
それからママは沸かし直したお湯をフラスコに入れ、ビームヒーターをつける。一分もしないでお湯が沸騰し始め、上部のロートに昇っていく。そして木べらで粉とお湯とを攪拌させながら、最後に「とん」と縁で液を切ってヒーターを切る。一分ほどで抽出されたコーヒーがフィルターを通ってフラスコに戻っていき、透明なお湯と粗い粉から見事な黒が生まれる神秘的な瞬間がやってくる。
私はいつも惚れ惚れして眺めていた。コーヒーの抽出にも、ママの手の動きにも。
私は出されたカップを手に取り鼻に近づけ、すでに店内に漂っていたものよりずっと強く濃い香りを吸った。一つ口にして、この味だな、と思った。
「ねえ、ママ」
ママはこちらを見ないでロートに溜まったコーヒー粉を捨てて洗浄していた。私の問いかけに「なんですか?」と視線を向けず、返事をした。
「ママのトアルコトラジャは完璧だよ」
「そんなことはないでしょう。コーヒー会社の訓練をきちんと受けていれば、これくらいはできるものよ。どこの店でもね、一緒なの」
「そうかな……いつも動きには無駄がないし、この味も完成された味だったよ。いつも、どんなときも」
不思議な色に反射する液面を眺めながら、私はコーヒーに封じられた記憶を思い返した。
***
今からもう二十数年も前のこと、私には二人の愛人がいた。一人が妻の姉で、もう一人がクリエイティブな美術学校の学生だった。今考え直しても、なんとも悪い不貞を働いたものだ。しかし私の浮気は「愛するのに一人も三人もおなじだ」という理屈ではなく、愛する相手が誰でもいいとは考えていなかった。私の愛は愛すべき人のためにあるものだった。
もしどんな女にも愛を向けていたら、私の命は枯れ果てるだろう。本当に大切な人を愛するからこそ愛は愛だと思っていたし、それ以外のものは愛ではないのだと今でも思っている。
しかしそのことを最初に教えてくれたのは妻の姉だった。
あるとき、私は彼女と約束をして――どこかはもう定かではないが――都内のあるマンションの一室で会うことになった。そこは表通りから数本入っただけの場所ながら、一帯のマンションの影になった細い道は不気味に静まりかえっていた。密会の部屋の鍵は秘密のルートで手に入れていた。その日になって場所を示され、指定された部屋に向かっていった。やはり、恐ろしく静かだった。
ドアの鍵を開けると、すぐのところに若い男が一人いた。廊下の端に小さな台を据えてノートパソコンのキーを叩いていた。私が入ってきたのにはすぐに気付き、相手は「こんにちは」と無味乾燥な顔をして挨拶をした。私も、なんだか覚えていないけれど、何か返事をしたように覚えている。
「ご自由になさってください。都合上、私はここから離れられませんが、気になさらずに」
そういってまた画面に目を落として、パソコンの操作を再開した。彼は利用状況と何やら監視をしているようだと私は理解した。
こういった部屋の存在、密会に使われるような都合のいいところがあるというのは、あるとき友人に話されて知った。その彼はよくこの手の部屋を使うらしい。いろいろな道具や家具のようなもの、撮影機材までそろっているところなどさまざまあるそうだ。彼がどういった目的でそんな部屋を使っているのは聞かなかった。もし聞ければ自分のことだって聞かれるだろう。あるいは話がそこで終わってしまったはずだ。
私は「玄人向け」の部屋は遠慮しながら、一番初心者向けの部屋を教えてくれるようにこっそりお願いした。
彼はいやらしい顔など、少しも見せなかった。極めて普通の顔、コーヒーのおかわりでも聞かれたような顔をして、
「いいですよ、あなたなら。紹介制なのでぼくの方から話しておきます」
と、快く引き受けてくれた。
話は戻り、初めての日、部屋に入るとそこには不思議な空気が漂っていた。他の人の家にいくときより、もっとずっと大きな違和感があるものだった。いくら掃除しても拭えないような、不快なような、どこか不穏で後ろめたい気配がする……けれど胸の奥が高まりを抑えられない、そんな匂いだった。それが部屋に入った瞬間、まず私を迎えた。
なかはすぐにベッドルームだった。ベージュが基調の落ち着いた作りで、大きなベッドの様子はラブホテルよりも寝室に近い。カーテンはしっかりしたもので、ほとんど遮光できるものと薄く隠れるものが設置されていた。そしてすべて剥がせば周囲からしっかり見られただろう。
となりには部屋がもう一つあった。私はドアをスライドさせてなかに光を当ててみた。そこには……ちょっと私の口からはいいがたいものが用意された部屋だった。床や壁は赤と黒で怪しげに彩られていて、台座やロープ、何かしらの拘束具が並べられていた。
「初心者向けだけじゃないんだな……」
私は友人に騙されたとは思わなかった。私の注文が無理なものだったと思った。機能性を重視したら自然とこうなるのだろう……と。それから私は義姉が来るのを待っていた。落ち着かなかった。椅子やベッドの端に座って待つこともできたが、そうはせず、シーツやシャワーのあたりを点検して回った。清潔さの点では問題なさそうだったが、やはり匂いはいくらか気になった。多くの人間の匂いが染みているのだな、と痛感した。
こんな場所まで来てしまった私は、急に自分がしようとしていることに不安を抱いてしまった。
もともと、義姉とは親戚が集まる日、たまたま会ったのが始まりだった。この部屋へ誘ったのは別として、最初に私を誘ってきたのは彼女だった。妻の姉の彼女と会の席で仕事の話になり、互いに似たような業界にしたことで会話は弾み、名刺も交換した。
名刺の裏に彼女のプライベートな電話番号とメールアドレスが書いてあるのに気付いたのはだいぶあとだった。そして彼女から送られてきたメールに応えているうちに互いに魔が差してしまったのをきっかけに、私たちは関係を深めることになってしまった。
彼女から積極的に何かしらのアクションをされることが多く、家ではよく着信音に驚いたりもした。やがて彼女の誘いで会食に行ったり、気が進まないのに映画も見たり……。
だが、この日まで不貞は働かなかった。けれど、そのしばらく前に彼女は私にいっていた。
「もうここまで来たら、あなたは妹を裏切っているも同然よ」
その言葉は実際そうだろうと思っていた私の罪悪感を明確なものにし、また背中も押した。
義姉の魅力には私も負けていた。身体はスマートではないが、グラマラス……つまり、ふっくらして温かみがあった。いくらか締まったウエストに、少し大きなお尻、果実のように膨らんだ胸……。妻の姉なのだから、私の好みの顔でもあった。私よりも年は上だが、もう私だっていい年なので気にならなかった。
そう……正直にいえば、私だってまったく気にしていないわけではなかった。
そして義姉がやってきた。部屋に入ってきて、やはり入り口にいた男に驚いたらしく「きゃっ」と小さく声を上げた。
すぐに小走りをして私のところにやってきた。
「驚いた。ああいう人がいるのね。大丈夫なの?」
「大丈夫だよ、信頼できる人の紹介だ。ラブホテルなんかより他人を気にすることもない、普通のマンションなんだから」
私がわざわざこんな、マンションの一室に作られた淫靡な部屋を借りたのもそれが理由だった。信頼と信用があって成り立っている業界だからこそ、私も信じることができた。
「なんだか……いやらしい部屋ね。もう部屋の中は見た? ここにある冷蔵庫も勝手に使っていいみたいね」
「うん、そうだね。飲みたいのなら飲めばいい」
冷蔵庫を見た彼女は「まあ、こんなのが」と驚きながら笑った。
「こっちにも部屋があるんだ」
「ああ……そっちは見ない方がいいよ。いや……見ないで欲しいな」
「じゃあ、帰る頃に見ましょうか。そのときもまだ、その気だったら」
それから私たちはベッドに二人して並んで腰掛けた。
彼女はいった。
「ねえ、私たちここまで来たんだから、もうあとには退けないでしょう? ……いまさら、なんて」
自分がどれほどいけないことをしているのか、もちろんわかっていた。けれど、彼女からこんなにアピールされて誘われているのに、それを拒否していいものか私はわからなかった。
――愛はただ一人を愛するためのものではなく、自分が愛すべきと思う人のために行使するべきもの。
その気持ちは最初からのものだったが、長いこと彼女に説得され、何度も、言い方を変えたり場所を変えたりして私はそう教えられていた。
彼女は私のスラックスに手を這わせていった。
「私がこれだけ求めているのに、そんなにいつまでも黙っていたら傷つくな……」
これは男に対しての絶大な誘いの言葉だった。男からするアプローチとはまったく違うやり方で、重さも違う。だから最終的に彼女の思いきった行動を丁重に扱う必要があった。私も最大の言葉で返さなければならなかった。この時点ですでに、彼女の愛の教えに完全に陥落させられていた。
「……私も愛を求める人間だ。きみと出会えた機会を逃すなんて、ありえないよ」
私は彼女の潤んだ双眸と光るグロスに見とれてしまった。いくらか若いはずの妻がすでに失った色気を、そこに感じた。そして彼女の唇に自分の唇を重ねることになった。
着衣のままの彼女を抱き寄せ、髪を撫でた。何度か撫でた私の手は肩まで降りていき、二の腕や背中に伸びていった。キスは次第に濃厚なものになり、彼女に服を脱がすように促しながら、私も上がシャツだけになり、ベッドに仰向けになった彼女のそばでベルトを緩めた。
私のなかで新しい愛が目覚めた日だった。
私たちはベッドの上で抱き合っていた。シーツはぐっしょり濡れていて、そこにはバスタオルを敷いた。最初から敷いていればこれほどにはならなかったかもしれない。二人とも息切れがまだ続いていた。それほど若くはないのだから無理もなかった。
私たちはあまり多くを語らなかった。しかし、彼女も満足感があったことは間違いないと感じていた。私は本当に自分が愛について何も知らないと思わずにいられなかった。彼女と肌を重ねているとき、私は妻のことはすぐに忘れてしまったけれど、その間、ずっと義姉を愛していた。行為の間中、彼女以外、何もいらないとさえ感じられた。それほど、彼女に没頭していた。
帰り際、彼女は例の部屋を目にして「うわっ……」と一言、漏らした。
私たちは近くのコーヒーショップでトアルコトラジャを飲んだ。私の若い頃に「幻のコーヒー」と持て囃されたものだった。ここ数年で復活したらしく日本にも入ってきたけれど、希少価値はまだあった。
私たちはサイフォンにかけられたコーヒーを飲みながら、この一日を断片的に語った。
「あの人には黙っているでしょう?」
「当然だ。知られたら……取り引きは終わるだろうからね」
「あなたは私が見込んだとおりの人だった。これからもよろしくね」
「ご贔屓に願います」
その日、コーヒーに映る自分の顔はずいぶん若返ったような気がした。
文藝MAGAZINE文戯7 巻頭企画「COLOR」