小説「大地に落ちる汐の思い出」(連載第7回)
「知識に裏付けされた技術」について先生は話していた。優れた技術者は皆、自分の手元で起こることの理論を知り、その上で操作しているのだという。なまじ勘と経験を持って世渡り上手な者もいるが、それだけでは乗り越えられないことがある。知識のないものはより優れた者にはなれはしない、と。
それで兄と同様、先生は私も高校に行かせてくれた。幼い頃に厳しい道を選んだためもあり、地元の公立でもっともよいところへ通うことが許された。田舎の私立などよりずっといい普通高校だった。工業や商業高校、専門学校への進学も話には出ていたけれど、先生は「即戦力だけではない知識」も大事にするように言った。
「何事も基礎ができていないと、後々遠回りをすることになる。何か一つの技術にだけ特化して三年間を訓練して、さて、それがあまり自分に合っていない、不得意だとなると、これはとんでもない空振りになる。出戻りをして、また別のことを一から勉強しなくてはいけない。特化した技術は強いが、今すぐ無理にそうすることはない。それよりも、高校で習う一般的な語学や数学を幅広く、それほど深くなくとも知っておきなさい。人生は長い、学べるときに学べ」
その言葉に従い、私は普通科に進学した。毎日一時間半も自転車をこぐことになったけれど、これに不満はなかった。バスを使うとなれば相当なお金がかかる。もちろん先生には高校の授業料を払ってもらっているのだから、私の感謝は尽きなかった。高校での時間は他の誰とも変わらない時間を送り、何人もの友人に恵まれた。
その頃になると、先生もだいぶお年を召してきていた。元より、私たちの面倒を見るには年をとっていたのだけれど、急に老け込んだ感があった。力強さと静けさを漂わせていた頃とは違った。それでも、枯れつつ細くなる身体からは、ときおり稲妻のように私や子供たちを貫く覇気を持っていた。
私塾では、もう私のような年の者は一人も学びに来なくなり、私にしてもいつまでも子供の立場ではなかった。それまではだいぶ年長な兄貴分だったが、先生の下でも大人として彼らに接した。そのようにして、平日の夕方からはほとんどを指導と家での家事に費やした。夜になってやっと、手が空いて勉強にかかれるという具合だった。
休日になると、ときどきは遊びに出ることもあった。新しい友と出会い、あちこちに遊びにも出た。私も実際は一人の子供だったので、この新しい世界との出会いは大人へ向かう大切な機会だった。遊びに行くといってもかわいいもので、たいていは隣街に映画を見にいくか、田舎に入ってきたばかりの珍しい食べ物や飲み物を口にするくらいだった。見たばかりの映画の真似をしてコーヒーを飲み、「お忍びだ」と冗談を言ったこともある。(ローマや銀座とは雲泥の差だった)
一度、友人と海に行ったことがある。同じようにグループで来ている知らない女の子を引っかけようという話だったが、覚えている限り誰も声をかけたものはいなかった。最初の時点で私は冗談だろう、この連中には無理だなと思っていたし、浜の人混みを眺めているだけでも刺激的だった。しかしこの小さな海への旅は、女の子の水着姿以上に私に大きなものを残した。海の美しさだった。
私はそれまで生きた本物の海というものを見たことがなかった。写真では見たことがあったけれど、ずっと周囲を山に囲まれた内陸暮らしの私には新鮮であり衝撃だった。
今でこそ交通の便がよくなり、自家用車も普及して誰でも海を知っている。磯の香りは鼻をつくほどのもので、これを一年中吸って暮らしている人がいること、海と陸との温度差でいつも風が吹いていることなど、内陸の人間には信じられない世界があるのだと言葉にならない思いがこみ上げた。浜辺で波打ち際を歩いたときは、砂混じりの海水が上ってきては足に絡み、ときには膝下まで砂まみれにした。波がこんなに砂まみれだとは、少し考えればわかるだろうに、それさえまったくわかっていなかった。
海は広いということは知っていたけれど、ただ広いものではなかった。細部に多くの不思議なことと現実とを宿した世界だった。たった一日いただけで、知れば知るほど海は広くて深いものだと思い知らされた。
そして私は海と世界に恐怖した。海はこれほどまでに広いのに、私がいる世界の小さな部分に過ぎなかった。それから長いこと、波の音が耳の中で響き続けていた。
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