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小説「大地に落ちる汐の思い出」(連載第5回)

 とことんまで悪心を許さない、それが私たちが見た先生の姿だった。それはもちろん、御自身についても同様で厳しいものだった。私を前にするとまったく動じないで道について説いてくれて、言葉には隙がないように思えた。


 しかし兄は先生の心にもぐらつくものはある、と言った。
「俺が先生と一緒に買い物に行ったときだった。帰りの小路で財布が落ちているのを見つけたんだ。先生は拾い上げてな、『落としたものは困っているだろう』と言って中を確かめたんだ。多分、免許証なんかを探すためだろうけど。俺はまだ背が小さくて、その様子を下から見上げていた。そうしたら、先生の顔つきが変わるのが見て取れた。目を見開いた後、じっと財布を凝視してたんだ。先生のあんな瞳は初めてみたな。こう、眉間に皺を寄せる一方でそこから目を離せない……みたいな感じでさ」
 そのまま数秒間固まり、先生の目は据わっていたと兄は言った。それから、思い出したかのように兄を見ながらため息をついて、「交番に届けようか」と言ったという。
 それから先生と兄は街に戻り、落ちていた場所や先生の連絡先などを話した。そしてその後にこんな話になったと語った。
「財布の中なんて見なければよかったな。なんで開けてしまったのだろうか。ずいぶんたくさん入っていてな、これが全部自分のだったらと悪い心がどこからか沸いてしまった」
 先生はちょっと笑いながら、でもどこか悲しげに言った。
「汚い金は手にしてはいけない。何が汚いといって、盗んだことだけでは終わらない。盗んだ金が財布にあるうちはいつまでも悪の心を持ったままだし、金が出ていっても自分の悪行に変わりはない。自分が悪いことをしたのを心に抱えるのは生きづらいし、忘れたり誤魔化していいことにしてしまうのもいけない。そんなことをしたらそのうちに悪に慣れてしまい、とんでもない巨悪に手を出して取り返しがつかなくなる」
 そして帰った後に、部屋に呼ばれて本を出されたのだという。
「この本を開いてみせたんだ。『己の心に掟を持つものは、他人によって裁かれるものではない』……だってさ。先生は良心に従っていれば他人に罰せられることもないし、後ろめたさも感じない。それと、自分自身を裁くのは自分の良心である……そうも言っていたな」
 兄は本をぱらぱらめくりながら、ふぅと息をついた。
「でもよかった。先生が変な気を起こさなくて。もし目の前で悪いことをしていたら、いつもの姿から一気に転落した先生を見ることになったはずだ。これ以上、一緒に生活なんてできなかったかもしれない。もしかしたら言っていたみたいに……先生は罰せられていたかもしれないわけだし」
 話しながら、兄は少しだけ泣いていたような気がした。


 兄が話してくれた夜、先生の部屋の前を通り過ぎるとカサカサと紙の擦れる音、ペンの走る音が聞こえてきた。先生はおそらく、厳しい目で書類などに向かっているのだろうと思ったが、私にはさきほどの話で、その目に悲しいものが宿っているような気がして心苦しかった。


 人の弱さというものを知らないですませることは、あるいはできるかもしれない。けれど先生のような人を通して見た弱さは、私に大きな影響を残し、大事な教訓となった。先生の体現するものは、すべて私たちにとっては教えだった。
 兄が見せてくれた本は、今ではもう誰の何というものだったのかわからない。数年後に兄は十八になり、家を出て独り立ちすることになり、そのときに持っていってしまったからだ。

 次回へ続く

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