スクールロイヤーはいじめいじめと叫ばせない
久しぶりだけど、ちょっと最近のいじめ防止対策推進法の議論に現場から真っ向から戦いたいと思った話。
法律上のいじめが広すぎるという課題
いじめ防止対策推進法について、いろんな側面から色んな形での改正の議論が広がっている。
その中でも一番のポイントは、法律上のいじめって、これまでのいじめのイメージと違いすぎない??というところにある。
今日偶然見た某刊行誌でも、今の定義だとこんな場合もいじめになるんですよ!感覚的におかしいですよね!みたいな議論が寄稿されていた。内容は間違っていないけど、現場からすれば、だからなんなんだって話である。
改正の議論は勝手だけど、今の現場がどうするべきか考えてよね。
今の法律の定義が一般感覚にそぐわないとして、今その法律の適用を受ける教育現場はどうしろというのか。「そんなわけでいじめの定義おかしいからこのケースは対応しませんね、法律無視しまーす」とでもいうのだろうか。そこんところ考えずにワーワー言われてもなって感じ。
文科はいじめいじめ言わなくていいってずっと言ってるぞ
いじめの対応については、文部科学省がこれまでも色々ガイドラインを出しているのだけど、その中で指導でいじめって言わなくていい場合もあるよってはっきり書いてある。
学校 は,「いじめ」という言葉を使わず指導するなど,柔軟な対応による対処も可能である。ただし,これらの場合であっても,法が定義するいじめに該当するため,事案を法第22条の学校いじめ対策組織へ情報共有することは必要となる。(いじめの防止等のための基本的な方針 5ページ)
法律上のいじめの範囲が一般的なイメージよりも広いことなんか、文部科学省もずっと前からわかってるし、区別していいよとはっきり発信しているのだ。なんの議論をしているのさ。
法律の定義と一般感覚がズレるなんてよくあること
こんなケースもいじめだなんて感覚的におかしいよね(ドヤ)みたいな話がされるけど、そもそも、法律の定義と一般の感覚がズレることなんてままあることだ。
弁護士のたまごが法律の勉強を始めて、まず一般感覚と違うと叩き込まれるのは「悪意」の意味だろう。一般的には「悪気を持って、ひどいことを知って」という意味があるが、法律用語では「その事実を認識していた、わかっていた」という意味でしかない。悪気があったは関係なく、善行でもわかってやったなら、悪意がある、なのである。
悪意については、「法律上の悪意は一般とは違うんだぜ(ドヤ)」と習い立ての知識をひけらかしていたのだろうに。いじめに限って一体全体どうしたのさ。
現場に求められているのは明確な区別とわかりやすい説明だ
この定義の開きが保護者に誤解を生み、モンスターペアレントを生むんだみたいな議論が展開されたりもするわけだけど、そこは対応開始時か、それよりも前に、保護者にきちんと意味の区別と、定義が広い趣旨を説明すれば済むと思う。そこは定義の問題ではなく対応の問題だ。現に自分はそうやって今の定義に従って丁寧に説明して対応し、対処できている。
今現場で欲しいのは、「法律上のいじめの理解・一般感覚との区別について、どういう説明が保護者や子どもたちにわかりやすいですかね?」という問いへの具体的なアンサーだ。「わかりづらいですよねー法律確かに変ですよねー個人的には私は法律変えたいです」なんて感想は、これっぽっちも聞いていない。だったらすぐに法律変えてくれって話だ。
愛してるぞいじめ防止対策推進法
なにも変な定義を事なかれ主義でそのままでいこうぜ、と言いたいわけではない。定義が広いのは広いなりの理由がある。
いじめの定義がこうも広くなったのは、「いじめってどういう意味で使ってるかな?」という社会学的なアプローチではなく、「そもそもいじめってなんで許されないんだろう?私たちは子ども達を守るために、何を防ぎたいんだろう?」というところに立ち返って、再定義したからだ。
「些細なことに思えてもまずは丁寧に対応しよう、それが結果、全ての子どもたちを救うことにつながる」という、いじめの定義が広く取られた趣旨は本当に素晴らしい。
これをどう整理、区分して、学校現場の具体的なアクションに落とし込むかが悩ましく、やりがいがあって、本当に価値のある議論だ。
いじめっぽくない事例を考えて定義を批判する時間を、そんな場合に、学校は何をどうすれば子どもの幸せへと繋げられるか?って考える時間にシフトして欲しいと思う。頼みまっせロイヤーのみなさま。