他人という鏡
自分自身の姿は自分では分からないから、他人の存在は必要であるという言葉を見聞きする度に、“そうだなあ”と思う部分と“そうかなあ”と思う部分とがむくむくと湧き上がってくる。
私は何者かを知るのに、自分から見えていないが他者から見える部分があるのは確かで、私が私について知らないことを他人は知っているというのはその通りなのである。
しかし“他人が知っている”事が真実かどうかになると話は別で、他者から見れば正しいとしても、また違う人が見ればそうじゃないというケースは多々あって、じゃあどれが本当なの?と分からなくなる時もあるように思う。
自分の姿を教えてくれる鏡として、他者を大切にするという考えも一理あると思う。他者から言われた事を手掛かりに自分の行動を振り返るのも、決して悪くはないと思う。けれども、他者の意見が絶対ではないという前提でないと、自分の感性や感覚は後回しになったり、切り捨ててしまうことにもなりかねない。
日々いろんな人と関わる中で、他者は鏡というのは、他者がどう自分を見ているかよりも自分自身の姿が他者にどう投影されているのかの方が大切ではないかと思うようになった。他者を気難しいとか面倒だと感じる時は、自分自身も何かを寄せ付けないような気難しさを持っていたり、他者と関わることを苦痛に感じている場合が多い。けれども己のプライドや信念がそれを受け付けない時に、あたかも他者がそうで自分はそうではないんだという認識をする場合が往々にしてあるのだ。
そうやって、他者に自分の一部が映し出されているという見方をすると、たしかに他者は自分の鏡として、何に向き合うべきかを教える尊い存在に見えるのである。