できごとと”私”のあいだ

 長年私を拘束してきた観念のひとつが”家族を大切にしなければ自分が不幸になる”という事だった。それは多分、物心つく頃にはすでに自分の中にインプットされていたのだろう。周りを見回すと誰もが同じ事を口にし、同じように信じていたように思う。”家族関係は他者との関係のテンプレート”であることは心理学領域でも度々取り上げられてきたテーマでもあり、だからこそ家族関係の修復に長い間個人的に執念を燃やしていたのである。

 決して自分の望む通りにはならないとどこかで分かっていながらも家族を見捨てる事など絶対にできないと思い込んでいたし、そうしてはならないという強い自制が勝手に働いて、家族の仕打ちや理不尽な要求に対しても我慢し沈黙を通すことが最善という考えが私の頭を占めていた。感情を抑えること、こちらからは拒否をしないことは相手を安心させるだけではなく自分を守るためでもあったのだ。

 家族を捨てるような奴は、不幸になる。ろくな死に方はしない。

そんな言葉が私を度々不安にさせてきた。私はそうなりたくないという思いから、そしてこの人達との関係が切れてしまったら私は完全にひとりになるという恐怖から”家族を大切にしろ”という命令を自分に下していた。

 では、その言葉は真実なのだろうか。それを知る方法は一つだけある。

「家族を大切にしているひとは、みな幸福なのだろうか」と自問することだ。そうすれば、必ずしもそうではない事に気づく。

 家族を大切にすることと個人の幸福との間には、本当は明確な繋がりなど存在していない。十分に満たされた子供時代を送れたとしても、その後の人生で個人が幸福でいられるとも限らない。そもそも「幸福」の定義も個人により違っていて、他人が安易に推し量れるようなものではないのだから…そう考えていくと、自らへの問いの答えは結局「分からない。本人次第じゃないのだろうか」に落ち着く。

 …そこで改めて最初の言葉に戻る。”家族を捨てる奴は本当に不幸にしかならないのか”と。必ずしもそうではない、やっぱり自分次第ではないのかという思いが生じてくる。そこで始めて、何が自分を縛っていたかが分かったのである。

 人はどうやって、家族に対する自分の態度と個人の幸福の間の意味づけをしているのだろうか。それはどちらを先に扱うか次第なのである。ろくでもない事をしている人の個人史を遡ってみると、大半が家族との関係が良くなかったというデータを元にすれば、「家族を大切にすれば不幸は避けられる」と考えるのはそれほど難しくはない。実はほとんどの信念や通念というのは結果から遡り因果を探り出す事によって成り立っている面は確かにあるのだ。

 しかし家族を捨てた、縁を切らざるを得なかったという出来事が、その後の個人の人生に本当に不幸をもたらすのか、それが因果となり得るのかどうかはどうやっても個人次第としか言えないのである。家族関係の影響はゼロになる事はなくても、それが個人の人間関係の全てを支配しているわけではないと気づいた人から、不幸という連鎖から抜け出した人生を歩んでいけるのだろうと思う。”できごと”と”私”のあいだを繋げているのは他ならぬ自分自身なのだから。

 一例として海外データではあるが、児童虐待の世代間連鎖に関する研究を挙げる。服役中の囚人の集団に生育歴の調査をした結果は8割超の対象者から被虐待児でかつ自らも加害者経験をもつとの回答を得た。これに対し、一般的な都市人口に比例したグループを対象とした同じ生育歴の調査では、約33±5%の人が被虐待児かつ虐待者としての個人史を持つ事が明らかとなった。この研究に関して私が専門家にこの差はどこから来るのかと質問した時の答えは、「できるだけ小さい頃に、親代わりに愛情を注いでくれる大人と出会えたかどうか」であった。

 今の私の頭の中には、家族を大切にするべきという考えはないし、無理に繋がりを維持する必要も全く感じていない。捨ててもいい、と思う以前にすでに向こうから切られているのでただその事実を淡々と受け入れ、彼らがそれぞれの人生を全うするのを、余計な判断はせずそっと見ているだけでいいのではないかと思っている。

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