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お盆にはいつも、戦争のことを考えてしまう

ロシアによるウクライナ侵攻戦争が、平和な時代が続く日本人にとっては非現実的な出来事のようで、「なぜ今の時代に?」という違和感は、まさに「平和ボケ」の環境にいることを改めて認識してしまいます。

日本においても1931年から1945年まで戦争に明け暮れていました。

78年前まで悲惨な戦争があり、その体験者が今でもご生存されていることを考えれば、「平和ボケ」していると言われている私たちでも、せめてお盆の時期ぐらいは戦争のことについて、とりわけ「戦時中に生きた大勢の一般人たち」の悲劇の人生について思いを寄せてみることが大切ではないでしょうか。

陸軍の将校でも、平和は望んでいた

旧陸軍と言えば漠然と良い印象は持っていませんでした。
しかし、硫黄島で指揮を執った栗林中将は歴史に残る有能な軍人としてアメリカでも軍人として高い評価をされています。また人格者でもあったとされています。

私の祖父、堀少将は、その栗林中将との意見が合わず更迭されましたが、そのまま硫黄島に残り自害しました。

しかし、たとえ二人の戦術の意見が合わなかったとしても、戦争を早く終わらせたい思いは同じだったことが分かります。

祖母に聞いた話から、祖父は陸軍士官学校で教官をしていた時からすでに敗戦が分かっていたこと、もともと温厚で平和主義者であったとのことでした。

祖父の気持ちを孫の私が勝手に想像すれば、「早く負けて犠牲を少なくして終戦を迎えたい」です。

また栗林中将も、時間稼ぎのために戦うが、サイパンが占領されたら即座に停戦交渉をするように本部に進言していました。しかしその意見は全く無視されたという事実があります。

終戦まじかの陸軍の将校たちの中には、戦争を終わらせることを願っている人が少なからずいたことは事実ですが、優位に終わらせたいとの思いが強かったのでしょう。

インパール作戦などの悲劇を見ると、戦争はいつも全体主義のもとに兵士が道具として扱われていることが分かります。

たとえ間違っていたとしてもそれを実行させるものは、最上部の組織の中にいる限られた人たちです。

総司令部の決断について単純に論じられるようなものではないのですが、軍隊は上下関係、命令が絶対的なだけにリーダーは正しい判断をしなくてはいけません。

それは今の時代でも同様に言えます。

ブラック企業はなくならない

自分の威厳や組織の優越性を守ることを重要視する議員や企業のトップが、現場の意見よりも優先されることが未だに見受けられます。
時代が変わっても、人間の本質は変わらないのかもしれません。

例えば、ブラック企業について考えてみると、劣悪な労働環境を持つ企業が生まれる原因を正しく検証したものはあるのでしょうか。

傲慢な経営者が自身の利益や地位、保身を最優先に考える場合、社員は道具のように扱われ、過重な負担を課せられることがあります。

しかしこの問題は、経営者だけの問題ではありません。傲慢な経営者に従うしかない部下たちがいるからこそ、ブラック企業が存在します。

これは過去の戦時中の軍隊に似た側面を持っていますが、異なるのは企業において部下が意見を述べたり、辞職や団体交渉、中間裁定を求める権利があることです。

これらの権利を行使できない状況が、ブラック企業の根源とも言えるでしょう。その背後には、個人よりも所属する組織や集団を優先する傾向が国民性として影響を及ぼしていると考えられます。

例えば、納品の遅れを理由に36協定の労働時間を超えて働かせることや、育児休暇を取ると国の補助金で臨時職員を雇えないためにその手続きを避けることがあります。

また、職員の立場からは、休暇を取れば他の人に負担がかかるという理由など、様々な事情があることも理解できます。

経済的先進国でも幸福度の低い日本人は、長い歴史の中で階級社会、縦社会の上下関係に慣らされていて、それに気づかないという欠陥があるように思います。

最近、日本人の美徳が高評価されているという報道や記事をよく見かけますが、一方で嫌悪感を抱かせる事件が起こった際には、その事件の事象そのものがニュースに取り上げられる一方で、その背後にある本質的な要因についてあまり報道されていないのは、マスコミの保身なのでしょうか。

平和主義、民主主義の時代とはいえ、会社などの組織の中で苦しんでいる人はたくさんいます。
私の同級生の中にも、一流大学を出て地方銀行に勤務し、自殺に近い餓死をした人がいます。
生活困窮者相談支援の現場では、金融関係で、勤務先の前のビルから飛び降り自殺を図った人、一流商社に勤めていて精神的に病んでしまい、引きこもりになってしまった人、幼い子供を連れて離婚した若い女性が正社員として働けないため生活困窮に陥るケースは後を絶ちません。

P・S・祖父について

祖父の人物像としては同師団参謀だった堀江芳孝氏曰く

「鉄道畑の人で陸大専科出身であった。他人の話をよく聞いて小さな手帳にメモをとる習慣を持つ、きわめて温厚に見える堀大佐が、なぜ長いひげを伸ばしていたのかわからない。私個人から見ると、親しい、親切な、控えめな上官であり先輩であった。悲劇の人であった」
とのことでした。

祖母は、長崎県五島列島で旅館を経営していて、祖父に見初められたそうですが、祖母から祖父の話はほとんど聞くことはありませんでした。ただ温厚な人物で、共感をしていたころから「戦争は早く負けを認めて終わらせた方が良い」というニュアンスの言葉があったらしいのですが、はっきりとはわかりません。

当時の陸軍の将校たちの中に、そんなことを思っている人が少しでもいたことは事実ですし、人間はどんな教育を受けたとしても一番大切なものを見失ってはいけないが、どうしようもない時もあるということでしょう。


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