雨漏り
池平コショウ
あぁ、やっぱり雨漏りが始まった。
夕方から降り始めた雨は勢いを増してナイター中継が終わるころには豪雨になった。僕はシミが広がっていく天井を見上げながら絶望的な気分になっていた。
オトー(ウチではお父さんをオトー、お母さんをオカーと呼ぶ)が庭から大きなタライを持ってきた。本来は、銭湯代を節約するための行水用なのだが、雨漏りで活躍する。
天井を見上げながら狙いを定め、タライの位置を微調整していたオトーが「ジャスト!」と親指を立てた。うまくタライの中心に水滴をとらえたのだろう。
最初はポタッ・・・・ポタッ・・・・だった水滴が、ポタッ、ポタッ、になって、やがてタンタンタンタンと軽快にタライの底を叩いた。
洗い物を終えたオカーが居間にやってきて
「雨音はモーツアルトの調べ、だっけ?」とか言いながらタライをのぞき込んでいる。
妹は水滴のリズムに合わせて手拍子をはじめた。
「いいねえ」オトーがすぐに追従する。
オカーがよくわからないステップを踏むと家がミシミシと鳴った。
「家が壊れちゃうよ」
顔をしかめた僕にオカーは
「やっぱり少しダイエットしなきゃね」とトンチンカンなことを言っている。
僕の頭に水滴が命中した。天井を見上げると今後は口に入った。「うわっ」とTシャツの袖で口を拭う。オトーがゲラゲラと笑った。
「笑い事じゃないよ」僕が口をとがらせるとオトーは「ごめん、ごめん」と言いながら風呂場に洗面器を取りにいった。
一カ所、もう一カ所と雨漏りが増えて、そのたびにバケツやら鍋やらが畳の上に並んだ。
「今日は同時多発雨漏りだなあ」とオトーはのんびり天井を見上げている。やがて並べる物がなくなると「ナイス、アイデアを思いついたぞ」と玄関から傘を持ってきた。開いた傘を逆さに天井から吊す。傘は一本で何カ所もの雨漏りをカバーした。
どうだ。と言わんばかりにオトーが僕と妹を見回す。妹が「すごーい」と賞賛の声を上げ、僕はパチパチと気のない拍手をした。
気をよくしたオトーが「さあ、もっと来い雨漏り。傘はまだあるぞ」と天井に向かって威嚇している。
僕はあきれながら「この傘が水滴で満杯になったらどうすんだよ」と言った。
「うーん。そこまでは考えてなかったな」
オトーは、ケロリと言い「まあ、雨はそのうち、やむよ。やまない雨はないって昔から言うからな」と笑った。
予言どおりに雨はほどなく上がった。
「雨が降るたびに雨漏りするの、どうにかしようよ」わざと、ぶっきらぼうに言った。
「じゃあ、日曜日、晴れたら屋根のトタンのペンキ塗りをしようか」とオトーが提案した。
「じゃあ、ピンクがいい」と妹が喜んだ。
日曜日は快晴だった。僕が起きたときにはピンクのペンキがすでに用意されていて「さあ、張り切って塗りましょう」とオトーがローラーを振り上げた。
ピンクの屋根塗料は既製品にはなく、わざわざ二色を混ぜて作ったのだという。何度もすくって色を確かめたらしい妹は、すでにスカートの裾をピンク色にしていた。
自分も屋根に登る、と駄々をこねた妹を「補給部隊も重要な役目」とオカーがなだめた。オトーと僕は梯子で屋根に登った。よく晴れた夏空の下で遠くに海が光って見えた。
「気持ちいいな」言いながらオトーが深呼吸した。僕も真似して深く息を吸い込んだ。風は少しだけ磯の香りがした。
下から妹が「何か見えるの? 何が見えるの?」としつこく訊いている。オトーは「たいしたものは見えないよ」と答えながら僕に向かってウインクした。
小学校最後の夏休みの思い出だ。光る海のまぶしさと風の匂いをはっきりと覚えている。
社会人になった僕は都会のマンションで雨漏りとは無縁の暮らしをしている。僕の一人娘はあの夏の妹と同じ年齢になった。
「きゃあ。何これ」
妻の叫び声が聞こえた。あわてて見に行くと天井の広い範囲から水滴がポタポタと流れ落ちている。
娘が「何? 何? どうしたの」と訊く。僕にもわからない。
玄関チャイムが鳴った。
上の階の住人だと名乗った女性が恐縮しきっている。風呂場の排水口がつまって水が溢れたのだ。業者を呼んだから間もなく水は止まるはずだ、とも。
僕は「大丈夫ですよ」と笑顔を作り、立てかけてあった傘を手に取った。もう一度見上げた天井にあの夏空が重なって見えた。<了