チェンソーマンは二度死ぬ――「チェンソ―の悪魔」とは誰か――論
「週間少年ジャンププラス」にて連載中の、「チェンソーマン」という漫画が在る。
在る、とはいわずもがな、夙に若年層の支持も堅牢な、同誌看板作品の一つである。
今回は、この連載進行中の人気漫画作品に付いて、取り上げてみようかと考える。
主題,「チェンソーの悪魔」とは誰か
筆者が本作を知る契機と為ったのは、
原作「第二部」「戦争の悪魔」篇(間違えている可能性もあり)の中途からである。
寡聞にして、本作を始めとするサブカルチャー界隈より暫く離れていたが為に、作品タイトルのみは知っている、程度の縁ではあったのだ。
然し、オンラインにて無料連載中という破格の宣伝効果も相俟って、筆者の様な本作とは縁遠い輩にも、手に届いてしまったのである。
允に、無料より高価な代償はない、とう典型である。
設定、物語の構造を概略するならば、その作品世界には「悪魔」が存在し、その「悪魔」の権能は人間の感受する「根源的恐怖」の強度、多寡に依存をして決定される、
という事である。数多在る「恐怖」=「悪魔」の中心には「ヨハネに拠る黙示録」より主題を拝借をした「黙示録の四騎士」が女性として表象され、存在している、
という事であるらしい。
前述をした様に、「恐怖」の数多のひとつとして、「チェンソー」の「悪魔」が存在をし、主人公「デンジ」はその悪魔と契約を交わす事に拠り、話は始まり、
展開をしてゆく(何やらファウスト的でもある)。
先ず、此処で注目したいのが「悪魔」という設定である。之は、言い換えるならば「神」という意趣であろう(「悪魔」=「神」)。
そして何故、主人公の契約相手が「チェンソ―」でなければならないのか。
却説。「チェンソ―」と聞いて皆様が髣髴とするものは何であろうか。筆者は先ず、映画「十三日の金曜日」を想像をする。復讐の権化「ジェイソン」の得物が「チェンソ―」であるから。
若し、皆様の想像がその他を探し当てるのならば、此の論拠ははかなくも崩れ去って仕舞う程に、脆弱ではあるのだが。
「チェンソーマン」或は「チェンソ―の悪魔」=「十三日の金曜日」の「ジェイソン」ならば、
「十三日の金曜日」の「ジェイソン」とは誰か。
十三日の金曜日とは言う迄も無く、イエス、否、キリストが磔刑に処された日である。
因みに、「ジェイソン」とは「イエス」或は「ジーザス」が転訛した名前である、とは聊か穿ち過ぎであろうか。
つまり、稍強引に、象徴的に把握をするならば「十三日の金曜日」という映画は、弟子である使徒達、或は彼を、ジーザスを磔刑に処した者達への復讐劇である、とも考えられる。
「チェンソ―の悪魔」或は「チェンソ―の神」への言及の片方は此処で留めて置こう。
もう一つ、「チェンソーマン」には特殊能力がある。
それは、「捕食した対象(即ち悪魔=恐怖)」の概念を人間精神より抹消してしまう、というものである。
此処で、提唱をしたいのは「チェンソーマン」=「規制、検閲」仮説、というものである。「規制、検閲」とは何か、それは表象の状況の問題であろう。
つまり、指し示すべき対象が在るのに、その対象を指し示すべき「図像、言語」が封殺された状況である。
「喪われた図像、言語」=「検閲対象」であると考えて頂ければ、分り易いであろう。
然し、此処で問題が生ずる。言葉の綾かも知れないが、「概念」は消えても「現象」は残るものであろう。
言い換えれば、「さししめされるまえから空はあった」という事である。
フィクションが、某かの現実現象を反映し、その「表現」である以上、全くの絵空事、夢物語ではない以上――だからこそ若者の支持を集めているのであろう――、
此の連続してゆく現実に対して、某かの摺合わせ――破綻の無い帰着――を、作者である「藤本タツキ」氏は用意している、と考えたい。
孰れにせよ、未完の作品であるからこそ、今後の趨勢には注視し、刮目をしたい所存である。