思想論:「一般平和宣言と天皇制」

戦争回避に、平和宣言に何故、天皇制が必要か。

今日の文学の力では、限られた読者(=部分集合)にしかイデオロギーは関与をできない。
天皇陛下とは乃ち国民の長であり、代表であり、象徴である訳であるから、
実動的宣言ということをなされれば部分集合の全体への通告、通達(つまりメッセージ)を隈なく行き届かせる事ができましょう。
勿論、弊害もありましょう。
具体的には
第一:平和宣言そのものが戦争への呼び水ともなりうる場合(極東アジア地域に於ける国家‐相互不信の増幅が極まった場合)
第二:天皇陛下御自身の意志が戦争を指向をされる場合(これは、現代へ至る歴史的経緯=敗戦以降の権威制約的代償、等を踏襲こそすれば考えにくいとも)
第三:御勅意そのものが外部あるいは内部政治機関、統治機構、暴力装置の傀儡となり、
   全体主義的戦争論の方向へと利用をされる場合(之が最も現実的な危機となり得ると考えられる)

現実問題と致しましては
畢竟全体主義への回帰の側面も生れますから、個人主義者の方々、自由資本主義、共産主義、無政府主義を戴く方々よりの反発もありましょう。
取り得る解決策は二つ。
第一:上記平和宣言を侵犯をしない限りに於きまして、最大限の表現の自由、発言、思想の自由を保障する、ということ。
第二:特定の政治勢力(夙に保守政党)に拠る統制(秘密警察、言論規制、強制収容施設等の設置)を断固として、拒絶をする、ということ。

今更、天皇制などと。呪われた過去を引き出すことはないでしょう、と仰る方方もございましょう。

而して、少なくとも筆者に於きましては天皇制とは国家という一生命体、社会共同体の起源であり、
つまり肉体であり、血液を同じくするものでございます。

自分には、未だ世界一丸、唯一無二としての世界政府、世界国家とうものの実現は程遠く感ぜられます。
遵いまして各々の自治、各々の国家の貌、と謂ったものに――当分は――世界情勢を頼る外にはございませんでしょう。
その時に国家「日本」が如何に運営され、管轄され(国家の性質が、律法の維持と実行に拠ってその規定をされるならば)
存続をしてゆくか、
担い手は国民「個人」それぞれでもあり、立法司法行政の三本柱であり。その三位一体を外部より――あるいは内部より――司る、
われわれと同じ人の仔である、
「天皇陛下」御自身なのではないでしょうか。
 

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