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グローバルスタンダードなら、9月入学よりもむしろ院生支援?

こんにちは、scherzです。


今日は少し真面目な話を。

世間では「9月入学」制度移行についての議論が白熱しています。個人的に「9月入学」制度賛成です。ただ、今年じゃないと思っています。

あまり議論を重ねる時間がない中で、「抜本的な改革」だとか、「グローバルスタンダードだから」という、勢いだけというと言いすぎかもしれませんが。そのような空気感だけで移行すると「想定外」の事態が続出することは火を見るよりも明らかです。

個人的に田中氏の意見は的を射ているように思います。

まあ、9月入学の話はこれくらいにして。「グローバルスタンダード」という話がありましたが、それなら博士支援してみては?と思った次第です。

博士課程の学生、特に文系博士の待遇については少なからず聞いたことのある方もいらっしゃることかと思います。痛ましい事態も発生しております。

ちなみに、私は博士課程の学生ではありませんが、日本の博士号に対する待遇に問題意識を持っています。あと、理系のお話はあまり存じ上げませんので、申し訳ありませんが、ここでは文系博士の話に焦点を。

まず、博士号をどう取得するか、という話から。

もちろん、現在であれば、海外へ博士号(あわせて就職先)を求めていくことは可能です。そのためには語学の問題をはじめ、様々な関門をくぐりぬける必要があり簡単な道ではありません。しかし、そのような道を選んで活躍される方はいらっしゃいます。

また、一度就職したのちに、大学へもどり博士号を取得するという道を選ぶ方もいらっしゃいます。この場合、若手の学生よりも金銭的に余裕があるかと思われます。働きながら、という方もいるようです。

次に、日本の博士支援について、少しだけ(こちら、詳しくないのでエビデンスありません。気になった方は調べてみてください)。

いわゆる学振という、博士学生の支援制度が主要なものと思われます。この審査に通ると、2-3年は支援を受けられます。ただ、倍率はそれなりに。

また、給付型(返済不要)の奨学金制度も選択肢としてあり、意外と取得できる、という話もあります。大学で授業補助のバイトもできます。

このように考えると、文系でも博士課程の学生に選択肢はそれなりにあるように思われます。支援制度もそれなりに。院生を受け入れる会社も昔より増えています。このような道があるにもかかわらず、日本の制度や風潮にだけ不満を言うのは怠慢と受け取られるかもしれません。

学生個人の問題としてみれば、そうかもしれません。しかしながら、日本社会として考えてみれば、これはやはり改善されたほうがよろしいかと考えます。

上述の通り、海外への道が開けており待遇もよいため、つらい道とはいえそちらを選ぶ優秀な学生がいらっしゃいます。これが意味することは、日本社会が優秀な学生・研究者を失っているということです(もちろん、就職される方がいることは否定しませんが)。

院生を受け入れる会社が増えてきたとはいえ、まだまだ院生に対する日本の印象は微妙です。本当のところは分かりませんが、進学率を見れば、空気感を判断して院進を諦めた学生もそれなりにいるかなーって感じです。以下、文科省のデータ貼っときます。

一度増えた院生の数が近年再び減少傾向にあります。また、理系学生の進学率はともかく、人文・社会科学系の進学率は一桁台で横ばいのままです。

なぜ、私が院生や研究者にこだわるのかというと、それは研究者たちがあらゆる分野の最も濃密な部分を担っており、一般的な社会ではその濃密な部分を薄めたものや考え方を使っているからです。だから、濃密な部分の度合いが薄くなると、周りの部分も総じて薄まってしまうのです。

この話の元ネタは『学問への散策』という本です。なぜ大学が必要か知りたい方はぜひどうぞ。

同書において、学問はパリコレ、という趣旨の記述があります。パリコレの格好のまま街を歩いている人はいないが、一般にそろえるファッション用品はパリコレのそれを薄めたデザインだったりするわけです。

だから、いくら人文系が役に立たない、と言ってもそこが薄まってしまえば、気付かないうちに社会にその薄さの影響が出てしまうのでないか、と危惧しているのです。

たとえば、政治家や官僚が使えない、頼りにならない、と考える方も一定数いらっしゃるでしょう。もっと優秀な人はいないのか、と。もちろん、院生とか研究者だから優秀だとか言うつもりもないですが、このような部分にも少なからず影響しているのでは、と個人的には思ったりしてしまいます。

もっと優秀な人を、と言いつつその優秀な人たちを自ら手放している可能性も想像してみると少し見方が変わるかもしれません。

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