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調和の美

私はルールを守ることがとても好きだ。

と言うか、ルールは守るものだし、守ることが当たり前だと思っている。


車が居なくても赤信号なら止まるし、

何かを待つ時は必ず列に並ぶ。


そこには“調和の美”がある。


そこに人がいたとしたら、みながルールに従って同じように動く。

誰もが不快な思いをすることなく、スムーズに動いていく。

そのイメージが、とても美しくて好きだ。


そこに誰も人がいない時でも、私の中では人が絶え間なく、美しく動いているイメージがある。

だから「誰もいないからルールを守らない」という選択肢はあまりない。

シンプルに、美しくないから。

人が規則正しく、寄せては返す波のように、当たり前に自然に動いていくイメージの中で、自分だけがその波の間を不自然に歩き回り、人にぶつかり、痛みや不快感を生むのがとても嫌だ。



私がルールに求めているのは調和だ。

人と人とが優しく、美しく、慈しみを持って関わり合う姿。

これが私のイメージする調和だ。

そしてそれは美しい。



だから、そもそもルールが弱い土地は、非常に気持ちが荒れる。

今住んでいる福岡は、基本的に人がおおらかだ。

よく言えば、おおらか。しかしそれは大雑把、とも言える。


つまり、福岡は全体的にルールが弱い。

人は他人にぶつかることを気にしない。

列を作らない。待たない。

他の人の動きを気にしない。

これは私にとって、美しいリズムがほぼない状態である。


音の粒が揃っていないまま、やたらめったらピアノを叩き鳴らしているようなイメージ。

ファが来ると思えばシが来、不協和音が響き、テンポは乱高下する。


常に、疲れる。


ただ、その中で私は面白いやり方を発見した。

うねる音の波の中で、自分だけが自分の思う美しい音を奏でるのだ。


自分より先に待っていた人を優先し、

道を渡る時は振り返り、

人にぶつからないよう1歩横へずれる。


その時、乱雑な音の中で、ふと澄んだ綺麗な音が聞こえるような気がする。

それがとても心地よい。



ルールがない中でも気持ちよく生きている人たちはいる。

だが、私はその中で常に疲れ、いらだち、気持ちをささくれさせてしまう。

それなら、私は私の美しさを守ればいい。

人に迷惑をかけることがないのなら、私は自由に美しさを楽しめばいい。

それもまた、自分との調和であり、美しさだと思う。


例えこれを他人が“神経質”、“精神病”、“細すぎる”などと言おうとも、私はそれを気にすることは無い。

私は私の好む美を追い求めるのが楽しいのだ。





ただ、最近気づいたことがある。

大雨の日、車どころか人一人も歩いていない道で、赤信号を渡ってみた時のことだった。

そこに確かに他人との調和はなかった。

しかし、誰もいない町とひとりぼっちの信号無視の間に、何か美しいものが見えた気がした。

モノクロのフィルム映画のような、ノスタルジックな安心感が、そこにはあったように思えた。



私もこうして少しずつ、この街の人間になっていくのかもしれない。

(そしてこの街は、別の角度から見ればとても美しいのかもしれない。)

いつも応援ありがとうございます。 あなたの毎日がよくなるように、少しでも力になれるよう これからも精いっぱいがんばります٩( 'ω' )و