30代一年生の感想
このブログを始めたのは2018年のようなので、更新していない時期があるとはいえ、もう5年になるみたいだ。私は今年31歳なので、書き始めた時は26歳だったということ。今振り返ってみると、なんて若かったんだろうと思う。それと同時にただ20代の過ごし方がうまくいかなかっただけで、あそこまで人生が失敗で、全て終わったような気持ちにさせられていたのだろう、とも。
去年30歳になって一年経った。やっと少し自分が30代になったことを受け入れられる気がしてきたので、記録として今の考えを残したいと思う。とはいえ同じ年代でもさまざまな環境、ライフステージにいる人がいるし、決して私の思ったことが全てなんかじゃない。これはあくまで私の実感の話だ。
昔の記事で「20代は老いに慣れていないのできつい」という話をしたけれど、今振り返るとまさにそうだったと改めて思う。というのも、今はおそらく「老い」を受け入れはじめていて、この記事を書いたときとは違う感覚だからだ。
20歳前半くらいまで歳をとって大人になっていくのは、ポジティブなことだった。歳をとるのは自由に近づくのと同じ意味だったから。少なくとも私にとっては。
それが20代後半になってくると急に体力的に「老い」を感じる瞬間がやってくるようになり、とにかく慣れていないので体力的にも精神的にもきつい。特に私の場合は家庭の問題に振り回されていた時期だったし、問題との距離の取り方も今よりずっと下手だった。あまりに辛かったので死にたいとしょっちゅう思っていたし、全体的に生き急いでいたと思う。
今30代になって思うのは、「あんたそんなに急がなくても、心配しなくても、遅かれ早かれ死ぬよ」ということ。なぜかはっきりわからないけれど、特にこの一年は強く「死」の存在を認識した一年だった。20代のとき、私にとって「死」はどちらかといえば選ぶものであり、あちらから迫り来るものではなかった。たまたま私が幸運だったという話でもある。
でも30代になって、「あ、自分もいつか本当に死ぬんだな」というのが少しずつ実感として降りてきたような気がする。例えば小学生の頃よくテレビドラマで見ていた、当時60代だった初老の俳優たちは80代になっていて、ふとした時に訃報が流れてくる。知っていた初老の人たちがいなくなっていくと同時に、気がついたら昔はまだ「若者」だった人たちが、その空いた「初老枠」にいる。当たり前のことなのだが、歳をとるって本当にこういうことなのか、とびっくりするのだ。この順番はいつか自分にも巡ってくるのだと思うと、なんともいえない恐ろしさを感じる。こればかりは意思で拒否できるものでなく、私たちは本当に日々老いていて、(多くの場合)順番に死に近づいているのだと。
そもそも、うちの父は確か43歳くらいで亡くなっているはずなので、あくまで仮定として考えたらであるが、今の自分の年齢で考えるとあと10年くらいしか人生が残っていないことになる。私は父よりも医療アクセスの良い場所に住み、時々健康診断を受けることができる仕事に就き、父ほど不養生していないから、もう少し長生きできることを願いたいが、先のことなんてわからない。
そして、寿命というのはあらゆる要因から人によってすごくばらつきがあることも分かってきた。そう考えるとやっぱりますます「〇〇歳までには〜」みたいな話は馬鹿馬鹿しく感じる。だってみんな全然違うタイミングで死ぬんだもん。
そんな中、朝9時から夕方6時まで週5日(繁忙期は残業でもっと働いてる)、人生の貴重な時間のほとんどを使って休日を待つように労働していると、毎日、毎月、毎年があっという間に過ぎていって、こうして人生って本当に終わっていくんだと嫌でも実感してしまう。
今年はそんな生活を続けなから、限りある人生の時間を意識し始めて、これからどうやって、何をして生きていきたいか、散々考えた一年だった。お金がないので考えてもほとんどのことは実行できないのだが、それでも考えずにいられなかった。
今、20代の時のような万能感を失ったのはたしかだ。頑張れば自分はいつかやりたいことを全部やれると信じていた自信はどんどん小さくなっていき、もしかして自分の人生ってずっとこのまま…?と恐ろしいことを考えるようになる。そもそも年齢のことだけでなく、私は実家が強制退去になったときに、今後自分はあらゆることを諦める人生を送るのだと思ったし。
それに加えて今後自分の身体が若返ることは一生なく、調子の悪い部分も出やすくなり、病院のお世話になる回数も増えるという実感も迫ってくる。そういうことを考えていると、やっぱりどうしても守りに入りたくなるものだ。このまま好きでもない仕事をして、住みたい場所ではなく住める場所にマンションを買い、最終的にはそれを売って老人ホームに入るべきか…と真剣に考えたりもした。
それでもやっぱり、腑に落ちないのだ。私はそんなことがしたくて生きているのではない、そもそもこんな大変な思いをして必死に生きているのに、好きでもない仕事に一生のほとんどを吸い取られて終わるなんて、全然割に合わない。前回も書いた気がするが、そんな「堅実」なプランだからうまくいくという保証もどこにもない。
基本的にいつも困っているのが、やりたいことと住みたい場所の矛盾で、私はやっぱりこうして書くことというか文芸、映画などのエンタメにまつわる仕事をしたいなと思うと同時に、やっぱりまだニューヨークに戻りたい、という気持ちが強くある。
書くことや映画の仕事がしたいなら日本にいてもそれにもっと力を入れてやるべきだけど、売れっ子でもなんでもないので、少なくとも今すぐ全然お金にならない。ニューヨークに行きたくて貯金を頑張るのであれば、ひたすら会社のために働いて年収を上げるしかない。でもそれ以外のことをする時間は失うだろうし、そもそもビザ取得のハードルがめちゃくちゃ高く、全てが高騰している今、そんなことが可能なのか、何年かかるのかも分からない。これが大体私のぐちゃぐちゃな頭の中。
不気味だろうけど、2015年にニューヨークを去る時に「絶対3年で戻ってくるけど、もしできなくても10年かかっても戻ってくるから!」というようなことを街に話しかけた。その記憶が今も鮮明に残っていて、もしかしたらその時から自分の一部を置いてきたのかもしれない、とさえ思う。
ふと自分に問いかける時、「このままでは死ねないな」って気持ちが湧き上がる。だってあまりに後悔が残り過ぎてしまう。だから失敗してもいい、やっぱり無理でしたと日本に戻ってきてもいい。でもそれは誰かに「無理だ」と言われたからではなく、自分自身が全力でやり切った結果である必要があるのだと、強く思う。だってこれは「気持ち」だから円安とかインフレとか、けして良くない政治とか、どんなちゃんとした理屈でも覆せるものではない。
30歳になった話からだいぶ飛躍してしまった気もするけど、こうして「諦め」がつかないのも自分なんだと、そういう自分への「諦め」も30歳でついてきた気もする。
そしておそらく私はこうして自分のことを書き続けるのが一番向いているのではないか、と思い始めてもいる。最近テイラー・スウィフトのライブ上映を見て、改めてテイラーが長年音楽を通して自分のパーソナルな話をするのも、創作が入っているのもとても良いなと思った。個人的なことは泥臭いけどパワフルだし、大事にしたい。なのでやっぱりこのスタイルは続けたいと思う。それでテイラーみたいに稼げるともっと良いんですが。。