音の細工
昔、わたしはほんの少しだけピアノの調律師をしていた事がある
『ピアノの巨匠たちとともに: あるピアノ調律師の回想』
わたしはこの本の文章に線を引いたり、付箋を付けたりとあらゆる方法で勉強したのだけれど、結局のところ、調律師として学ぶ上で1番読んだのがこの本だったように思う
とはいっても、読んだのは10年以上も前なので、面白かったり為になるような話があった記憶はあるけれど、内容はあまり思い出せないのがなんとまぁ悲しいところ
少しだけ覚えているのは、コンサートピアノの調律中に弦が切れてしまい、低音の太い弦は不安定でこれからコンサートをする上で不安要素しかなかった時に、たまたま会場で同じピアノを見つけてその弦を外してコンサートピアノに付け替えたって話があったことかな?
技術云々を語っていたというより、発想の転換が面白くて読んでいた気がするんだよね
技術者に求められるのは知識もそうだけれど結局のところ経験なんだなって思いながら仕事をしていたなぁって、技術力も勿論大事だけれど、場数を踏んだり、先に述べた発想の転換がなければ解決することができないんだなぁって何となく思ってたんだよね
いまのわたしはどれだけの経験値を積み、1人でどこまでできるようになったんだろう?
まだまだ人に左右され、自分の意思を伝えるのが下手だけど、そのせいで相手の言動を受け流していく力はついたように思う、前よりはって感じだけども
経験値を積むことはわたしにとってピアノの練習に似ている、わたしは起用ではないから何回も同じところを弾いて、指の動きと音の感じで正解を探していく
でもたまに楽譜通りにいってないときがある
それは譜読みを間違えていたり、1音くらい違う音を弾いたときに気づかなかったり、そのまま指や耳に覚えさせてしまうと中々直らなかったりしたもので、クラシックにおける『正解』には辿りつけないときも多かったなって
楽譜通りにいかなかった音の細工は正解ではなく『選択肢』のひとつだった
わたしは最初から正解は求めておらず、音の心地良さや運指の都合で弾くことも多かったからきっと先生からしたら教えづらい生徒だったことでしょう
でも、今になって思えばそれでも良かったんだなって
一時期完璧主義を目指していたわたしにとって、1音のずれが自身のメンタルや身体に大きく響く時があった
1音違えば全てが崩れた、当時のわたしにとって正解は自身の中でひとつだけだった
今ではそんなことないのにってわかるのにね
人の目に怯えて、あまり浮かないように、主張しないように、否定されないように、そうやっているうちに声が出なくなった、言葉を紡ぐことを諦めた
伝わらないから、わたしの話は、声は、言葉は
どんなに近しい人達にさえ、伝えることを諦めてただ流されに流された
音楽にまた向き合ってから、言葉ではなく音で伝える選択肢があることを思い出したんだけど、その当時のわたしの楽器はPCでのDTMだったから、時間を忘れて無我夢中で音を出した記憶がある
音が鳴るにつれ、わたしは吐き出した
本当はこう思ってたんだって再認識しながら、自身を音と音の間に織り交ぜて、チューニングした
調律師はピアノに向き合ってる時間、作業している時間は最終的に自身と向き合うことも多くて、結果的に自身を調律していたりする事も多いんだってさ
音が自身をチューニングして、補い、直した
わたしに音楽があってつくづく良かったって思う
いまのわたしは仕事では1年目のまだまだ新人で、でももう1人の若い新人と比べられたり、もっと仕事が出来ればなぁ、なんて周りから言われてたりするらしいけど、頑張ってます
正解を今でも追い求める性格だったらしんでたね
よかったよ途中で思い出して、また言いたいことは環境的に言えなくなってるけど、自分の意思が無くなった訳では無いのでうまく吐き出しても許してくれるところに感謝しながら伝えている
音の細工、言葉の細工、意志の細工、思考の細工
全てにおいていえることは、自身の都合の良いように変えてしまっているところ
それでいいんだよね、いまのわたしにとっては、これが答えだった
自分を守るために、わたしは音楽を選んだ
逃げ道はある、大丈夫
不眠症で、もう起きる時間になってしまった
シャワーを浴びて、準備して出勤しなきゃ
まだ外は暗いね
冬の寒さは冷えきってるね、朝だしね
おはよう、世界
また一日よろしくね
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?