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お仲間無罪(微罪)と対身内無罪

最近ダブスタだ、お仲間無罪

だと界隈が騒がしい。
なるほどダブスタやお仲間無罪は誰でも陥りがちな人類普遍の"人情"のようなもの。それもあるだろう。
でも本当にそれだけなのだろうか?と疑問を持ち、以下の考察をしました。

まずはこの画像。

上の画像は(比較的)問題にされた暴言
下の画像は(比較的)問題にされなかった暴言
です。

両者の違いを見ると、特定のアカウントとの繋がりが深いかどうかも考えられるが、そこは外野では判断しづらい。はっきり違うのは暴言の対象が上が「フェミ(寄り)アカウント」で下が「そうでないアカウント」です。

対身内無罪

これは何を示すかというと、フェミニストという「敵」と戦う時は襟を正してやろう。というある種のブレーキがかかるということです。
こちらが暴言という失態を犯すことで相手を有利にするかもしれない、敵でも味方でもない第三者への訴求力を失うなどと想像するからでしょう。
そのため、敵への不当な攻撃には厳しく対応しようとなる。

それに対して、身内が身内と争った場合は「襟を正そう」とする動機がなくなってしまう。
だから身内の不当な攻撃には関わりたくない、なあなあで済ましてしまう。場合によっては加担してさらに状況を悪くする。
身内の争いでは第三者の関与がない(とは限らないが)からどんどん過激化する傾向があるのは日本赤軍の例を始め、歴史上枚挙にいとまがない。

対身内での暴言には甘くなりがち、それを対身内無罪と呼ばせていただきます。
対身内無罪も、お仲間無罪と同じように人情だろうし、一概に否定するつもりはない。
ただ、敵と身内でダブスタになっているのは否定し難いし、身内への「甘え」だと取られても仕方がない態度であることは留意されたいと感じます。

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