【雑記】「狂人と議論してはならない」3つの理由
議論することは民主主義とって重要なことである。異なる考えをぶつけ合って、お互いが共存できる環境を探っていく過程をないがしろにしてはならない。
本当だろうか?
突飛な主張であっても、それ受けて議論することで多様性が維持できる、という考え方をする人がいた。立派なことだと思うが、あえて「議論は相手を選んでするべきだ」と言いたい。その理由は3つある。
1. 妥協できない
2. 結論が出ていないと思われる
3. 狂気を深化させる
以下にひとつずつ説明していく。
1.妥協できない
ひとつの問題について異なる意見が出た場合、お互いが相手の主張を精査し問題点を探り、妥当な着地点を探っていくのが議論である。あくまで理想であるが、声が大きい人や数が多い意見ではなく、正当性を持った意見が重きを置かれるべきだ。
だが、目的が問題解決ではなく自分の意思を通したいだけの人もいる。そういった人と妥協点を探ったり、現状での実現可能な方法へ落とし込んでいく議論は難しい。
また、実際の問題と自分の感情を切り分けられない人もいる。
自分が気に入らないという不快感と、実害がある問題を同時に解消しようとするので、話が進まないどころか不快感だけが膨らんでいきモンスタークレーマー化してしまう。こうなっては話し合いどころではない。お互いに頭を冷やす期間が必要である。
議論してはならない。
2.結論が出ていないと思われる
実はとっくに結論は出ているのだが、納得ができずいつまでも同じ議論をふっかけてくる人がいる。
これに応じていてはいけない。
議論の過程を知らない人が見ると「まだ結論は出ていないのだ」とか「反対意見にも一理ある」など、同じぐらい正当性を持つ主張がぶつかっている状況だと勘違いさせてしまうからだ。
議論をするには主張の前提となる根拠が必要だ。そうでなければ主張の正当性や妥当性をはかることができないからだ。
にもかかわらず、耳目を集めることを目的とした根拠のない主張と、根拠を持った意見を同等であるかのように戦わせることは、悪平等である。
議論してはならない。
3.狂気を深化させる
議論に値しない主張に凝り固まった人は、もはや聞く耳を持たない場合が多い。同質の主張をする集団を形成し、人を味方と敵に分けて識別するようになっていることもある。
そういった相手との終わりのない議論は、かえって相手の主張を暴走させるだけである。
立場のある人の場合、後戻りできないところまで踏み込ませてしまうこともある。また極端な主張する人は、精神的に不安定であることもある。議論で詰めていけば、相手を追い込んでしまうかもしれない。
そうなれば議論ですまない過激な行動に出てしまう可能性もある。
相手のことを考えれば、突き放し無視するのも優しさであるといえる。
議論してはならない。
おわりに
議論によって多様性を保つ、という理想を否定することはできない。しかし、すべての人が議論を望んでいるわけではないし、すべての人の困難が議論で解決するわけではない。
また、極端な主張や正当性のない主張が議論に値するかのように振る舞えば、かえって多様性を損なう危険がある。
してはいけない相手と議論してはいけない。議論によって解決するという選択肢を残しておくために。