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#4:まとめ「赤線からトルコ風呂へ〜昭和風俗の変遷」


赤線地帯の成立と歴史的背景

第二次世界大戦前の日本では、吉原や洲崎などに代表される遊廓(公許の遊里)が存在し、そこで公娼制度の下での売春営業が認められていました。しかし、終戦直後の1946年(昭和21年)、GHQ(連合国軍総司令部)は民主化政策の一環として日本政府に公娼制度の全廃を指令します​。これにより明治以来続いた娼妓取締規則などの法令が廃止され、伝統的な遊廓は非合法化されました。当局は女性の人身売買的拘束を禁じ、性産業の解体を図ったのです。しかし公娼制度の廃止は、逆説的に街頭で客を取るパンパン(Streetwalkers)の急増を招き、治安と公衆衛生の新たな問題となりました。敗戦直後の混乱期、日本政府は占領軍兵士による一般女性への性的暴行を防ぐ目的から、急遽「特殊慰安施設協会」(RAA)を設立します。RAAは日本各地に慰安所を開設し、延べ5万5千人もの女性を募って組織的な売春業務に当たらせました。これは敗戦直後の1945年8月に設立され、翌1946年3月までという短期間で廃止されましたが、RAAは「進駐軍兵士の暴行から日本女性を守る防波堤」として女性たちに犠牲を求めるものでした​。新聞にも「急告 特別女子従業員募集 衣食住及高給支給」といったRAAの求人広告が掲載され、地方から女性を集めています(1945年9月4日付毎日新聞)。RAAは公娼制度全廃後の空白期における暫定的な国策でしたが、占領軍当局自らが売春組織を利用することへの批判から、1946年3月にGHQにより接収施設への立入禁止措置がとられ、活動を終えました。

その後、日本各地では公娼制度なき状態で性産業が再編されていきます。各都市では警察の黙認の下、指定された地域で売春が営まれるようになりました。都市地図上で許容区域に赤線を引いたことから、これらの地区は俗に「赤線地帯」と呼ばれるようになります​。赤線とは、戦前の遊廓が実質的に形を変えて存続したものと言えます。例えば東京では、戦前の吉原遊廓跡地や新宿二丁目の一角などが代表的な赤線区域となりました。一方で、飲食店の許可しか得ずに実質的売春を行う非公認の私娼窟は「青線」と呼ばれ、新宿・歌舞伎町などがその典型でした。赤線は行政による暗黙の公認地区、青線はより非合法性の高い地区という位置づけで、戦後の一時期に奇妙な二重構造が成立したのです。

戦後復興と性産業の関係(経済と社会のつながり)

戦後の復興期、日本社会は極度の貧困と混乱の中にあり、多くの女性が生活のためやむなく売春に従事しました。占領下では進駐軍相手の商売も盛んで、闇市と並んでパンパンと呼ばれる街娼たちが都市の風物詩となります。特に在日米軍基地の周辺では、兵士相手の赤線街が形成され、外貨を落とす場ともなりました。これは戦後日本の復興経済にも一面で寄与したと言われます。1950年代前半、朝鮮戦争に伴う特需景気で潤った在日米軍からのドルが水商売や売春産業に流入し、日本経済の底上げに繋がったとの指摘もあります。

一方で、公衆道徳や衛生面の問題から売春の放置は次第に看過できなくなります。各自治体は売春取締条例を制定し、街頭での客引き行為などを取り締まろうと試みました。社会福祉団体や婦人団体なども女性の更生支援に乗り出し、売春問題は単なる風俗営業の枠を超えて社会問題化していきました。戦後復興期の日本において、性産業は復員兵や孤児問題と並ぶ深刻な社会課題だったのです。

政府レベルでも売春問題への対応が進み、1956年(昭和31年)には遂に売春防止法が国会で可決されます。2年後の1958年(昭和33年)4月1日に同法が施行されると、公然たる売春は法律上全面的に禁止されました。この施行によって、日本全国で約800箇所もあったと言われる赤線地帯が一斉に姿を消すことになります​。戦後十数年の間に雨後の筍のように各地に生まれていた公然売春街が、法の施行により文字通り一夜で消滅したのです。この劇的な変化は、社会に大きな衝撃を与えました。もっとも、売春防止法は直接的な売春行為の処罰を定めたものであり、周辺産業やグレーゾーン業態そのものまで直ちに消し去ったわけではありません。法律施行後も、性的サービスは形を変えて存続していくことになります。それは後述するトルコ風呂(ソープランド)やノーパン喫茶、サロンなど「性的接待」を建前上は別業態として提供する風俗へと姿を変えていきました。高度経済成長期に入ろうとする日本社会で、性産業もまた地下にもぐりつつ新たな業態を模索することとなったのです。

風俗業界の進化(赤線 → トルコ風呂 → ソープランド)

1958年の赤線廃止以降、表向き「売春のない日本」となりましたが、現実には需要も女性たちもすぐには消えませんでした。かつての赤線で働いていた多くの女性たちは、新たな受け皿として特殊浴場業態に流れ込みました。それが当時「トルコ風呂」と呼ばれた店舗型風俗の隆盛です。トルコ風呂とは個室付きの浴場で、女性従業員が入浴客の世話をする形態でしたが、実態としては性交類似行為を含むサービスを提供する店が次第に増えていきました。

トルコ風呂そのものは戦後すぐに生まれたわけではなく、最初期のものは純粋に異国風情を売り物にした健全なスチーム浴場でした。記録によれば、日本初の「トルコ風呂」は1951年(昭和26年)4月に東京・銀座七丁目に開業した東京温泉であるといいます。経営者は許斐氏利(この人物は戦前に射撃の日本代表として海外遠征した経験から中東のハマムに感銘を受け、帰国後に開業したとされています)で、女性従業員(ミストルコ)によるマッサージサービス付きの蒸し風呂でした。ただし東京温泉では女性は着衣のままで性的サービスは禁止されており、あくまで健全なリラクゼーション施設という建前を守っていたといいます。

しかし、他の業者が同様の個室浴場業に参入する中で、徐々に性的サービスの提供が横行するようになります。赤線廃止直後の1958年(昭和33年)には、閉鎖された赤線からあぶれた女性たちが大量にトルコ風呂業界に流入し、店舗数も急増しました。この年には都内で33店、全国で100店以上のトルコ風呂が営業していたと報告されています。高度成長期に入る1960年(昭和35年)には都内67店・全国167店に達し、東日本を中心にサービスの過激化と店舗拡大が進みました。一方で、西日本(近畿地方)では古い赤線の名残であるちょんの間(簡易な私娼窟)が根強く残存していたため、トルコ風呂への移行は関東ほど急激ではなかったという指摘もあります。

昭和40年代に入ると、トルコ風呂は事実上「本番行為あり」の風俗店として確立されます。1966年(昭和41年)にはトルコ風呂が風俗営業法の適用を正式に受け、警察の管轄下で初めて実態調査が行われました。その結果、当時全国に706店(うち東京都208店)もの店舗が存在したことが明らかになっています。また同年、法の網をかいくぐるように提供されていたサービス内容についても規制が強化されるようになります。例えば店内での過激なパフォーマンス等が問題視され、取り締まりの対象となりました。

トルコ風呂のサービスは時代と共にエスカレートし、多彩な趣向が凝らされました。1969年(昭和44年)には川崎市堀之内の店舗で働いていた女性が、客の身体に自身の身体を密着させながら泡立てた石鹸の泡で洗う「泡踊り」と称する新サービスを考案したとのエピソードがあります。このように創意工夫(?)が凝らされた結果、日本のトルコ風呂は一種独特の進化を遂げ、“キング・オブ・風俗”とも称される地位を占めるようになりました。

しかし1980年代に入ると、トルコ風呂という名称自体に国際的な批判が高まります。日本に在住するトルコ人コミュニティから、「自国の名称が日本の風俗店の俗称として使われるのは遺憾だ」との声が上がり始めたのです。特に1984年(昭和59年)、在日トルコ人留学生のヌスレット・サンジャクリ氏が厚生省に対し名称変更を直訴したことを契機に、この問題は広く知られるようになりました。ちょうど同じ頃、東京都内の電話帳に風俗店「大使館」という店が「トルコ大使館」と誤って掲載されてしまい、本物の駐日トルコ共和国大使館が抗議するといったハプニングも起こっています。世論の注目が集まる中、業界団体である「東京都特殊浴場協会」は公募により新名称を検討し、1984年12月19日、「ソープランド」と改称することを正式に発表しました。こうして約30年にわたり親しまれた「トルコ風呂」の呼称は歴史の表舞台から姿を消し、以後はソープランドという呼び名が定着します。ちなみに、サンジャクリ氏が名称問題を相談していた相手の一人が後の政治家・小池百合子であり、彼女は1985年4月の毎日新聞夕刊のインタビューでその事実を認めています。風俗と国際問題、さらには政治家まで巻き込んだこの改名劇は、昭和風俗史の幕切れを象徴するエピソードと言えるでしょう。

当時の広告やメディア表現の変化


Wikimedia Commons

昭和の性風俗産業は、その時代ごとの社会状況を反映しながら広告やメディア上の表現も変遷していきました。敗戦直後は、公的機関が新聞に露骨な求人広告を出すような時代でした。前述のRAAによる求人広告(「特別女子従業員募集」)は、極端な例とはいえ政府自らが売春婦を募ったもので、戦後混乱期ならではの特殊事情がにじみ出ています。やがて赤線が成立すると、そこでは表向き「料亭」や「特殊飲食店」という名目で営業する必要があったため、宣伝にも隠語や婉曲表現が使われました。例えば赤線地帯の案内図には、旅館風の名前や料亭名が並びますが、実態を知る人にはそこが色街であると暗黙に了解されていたのです。

1950年代には、売春婦たちを描いた文学や映画作品も登場し始めます。小説家・吉行淳之介は1951年(昭和26年)に『原色の街』という赤線を題材にした小説を発表し、売春婦の日常を鮮烈に描きました。また巨匠・溝口健二監督の遺作となった映画『赤線地帯』(1956年公開)は、吉原の赤線街に生きる女性たちの群像を描き、売春防止法制定直前の世相を反映した作品として話題を呼びました。これらの作品では、赤線で働く女性たちの哀歓や社会の矛盾がリアルに表現され、風俗の世界が初めて大衆文化の真正面に取り上げられたのです。

昭和40年代以降、トルコ風呂が市民権(?)を得てくると、メディアでの扱いもさらに大胆になります。1970年(昭和45年)には『週刊大衆』や『アサヒ芸能』といった大衆向け週刊誌が次々にトルコ風呂の特集記事を掲載し、その実態や裏側を暴露する記事が人気を博しました。艶笑的な風俗漫画や体験記なども雑誌の定番となり、エログロブームの一翼を担いました。テレビや新聞の表舞台では相変わらずタブー視されつつも、深夜ラジオ番組やピンク映画の世界では、ソープ嬢(トルコ嬢)を主人公に据えた作品さえ登場します。昭和末期には風俗産業そのものが巨大市場となったため、広告媒体も充実し、スポーツ新聞の風俗広告欄や街頭のネオンサインなどで各店が競ってアピールをするようになりました。とはいえ公序良俗の規制は存在するため、表現としては「癒し」「憩い」といった婉曲なコピーや、裸ではなく水着姿の女性写真を用いるなど、一線は保たれていました。

社会規制と法改正の影響

昭和の風俗産業は、常に法とのいたちごっこでもありました。1946年の公娼廃止から1958年の売春防止法施行までは、法律の空白を縫って赤線・青線が事実上黙認されていた時代です。しかし売春防止法が成立すると、性風俗産業は公然とは営業できなくなり、様々な抜け道を模索することになります。トルコ風呂もその一つでしたが、法の網が徐々に狭まる中で業態を工夫し、生き残りを図りました。

1950年代後半から1960年代にかけて、各自治体や警察は風俗営業を細かく規制する条例や指導要綱を定めていきました。「飲食店の形態をとりつつ実際には売春を行っている店」の摘発や、「不良観光」としての売春街取り締まりなどが行われ、赤線跡地の浄化作戦が展開されました。また、売春防止法の抜け穴を突いた行為にも罰則を科す試みが続き、トルコ風呂における実質的売春行為も明確に禁止されていきました。

一方で、トルコ風呂自体は公衆浴場としての体裁をとっていたため、旧厚生省(現厚生労働省)所管の衛生営業でもありました。このため警察だけでなく保健所の監督も受けるという二重の管轄下に置かれていました。1960年代後半には風俗営業等取締法の改正によって、トルコ風呂のような業態も明確に「特殊浴場営業」と位置付けられ、許可制・地域制による管理が強化されます。営業時間や従業員の年齢制限(18歳未満の就業禁止)なども定められ、治安対策が講じられました。

1980年代にはいよいよ名称問題が表面化し、前述のソープランド改称に至りますが、これも広い意味で社会規制の一環と言えましょう。外国人からの抗議という国際世論もあり、業界側も応じざるを得ませんでした。さらに1985年(昭和60年)には風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(いわゆる風適法)が施行され、従来の風営法を全面的に改正して性風俗関連特殊営業の区分が整備されました。これによりソープランドは法令上も正式に「店舗型性風俗特殊営業」と位置付けられ、届け出制の下で営業する現在の枠組みが完成します。昭和の終焉を目前に、性風俗産業は法の枠内で存続する道を選び取った形です。

文化的意義と現代への影響

昭和の風俗史を振り返ると、それは単に性的サービス産業の変遷というだけでなく、日本社会の戦後史そのものの側面を映し出しています。焼け野原から復興する中で、人々の欲望とモラル、経済と規制のせめぎ合いが赤線やトルコ風呂という形で表れました。貧しい女性たちが生きるために身を投じざるを得なかった歴史の陰には、男性社会・家父長制の構造や、国家による性の統制といった大きなテーマも潜んでいます。それゆえ昭和風俗の歩みは、ジェンダー史や社会文化史の上でも重要な意義を持つのです。

現在の日本に目を転じると、表面的にはかつての赤線の面影は消え去りました。しかしそのDNAは都市の歓楽街に脈々と受け継がれています。東京・歌舞伎町や大阪・飛田新地といった歓楽街には、形態こそ変われど昭和の色街文化が色濃く残っています。例えば大阪の飛田新地は戦前からの遊郭でしたが、売春防止法後も料亭を装った特殊な接客で営業が続けられており、「最後の赤線」の異名をとります。また、吉原のあった東京・千束地区には現在も数十軒のソープランドが軒を連ね、日本最大級の風俗街として知られています。そこには**「お風呂でマッサージ」**という建前が今なお生きており、昭和から平成・令和へと受け継がれた風俗カルチャーの象徴ともなっています。

現代の歌舞伎町などを歩けば、ネオン煌めく雑居ビル街の中にピンクサロンやヘルス、そしてソープランドといった看板が林立しているのが目に入ります。これらは昭和後期に登場した新手の風俗業態ですが、歴史の連続性の中で見れば、赤線やトルコ風呂の末裔といえる存在です。昭和を生きた人々にとって、そうした街の光景はどこか郷愁を誘うものでもあります。なぜなら、時代は移ろえど「人間の欲望の発露」としての歓楽街の本質は変わらず、生身の人間が織り成すドラマがそこにはあるからです。

昭和の風俗の変遷を辿ることで見えてくるのは、日本社会における性と都市文化のダイナミズムです。公娼制の廃止から地下化、そして再法制化に至る一連の流れは、日本が近代国家から戦後復興、高度成長、そして国際化へと歩んだ軌跡と軌を一にしています。赤線からトルコ風呂、ソープランドへの変遷は、単なる風俗営業の歴史を超えて、昭和という時代の価値観の変容と人々の生き様を物語っていると言えるでしょう。その文化的遺産と教訓は、現代日本における性風俗のあり方やジェンダー問題を考える上でも、なお大きな示唆を与え続けています。

参考資料
昭和期の赤線・風俗に関する文献や史料(加藤政洋『敗戦と赤線』など)、各種統計・法律の解説、当時の新聞記事、ウィキペディア「赤線」「ソープランド」記事​等。


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