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202406-07_物語の輪郭についての輪郭

10/19
8月の中旬くらいの書きかけの日記
月に1回の、主に物語周りの創作の日記はなんとか1年はやりたいなということでかろうじて?食らいついている。食らいついてる?


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08/14および10/19

毎月書こうと思ってた日記も、いつかは毎月は書けなくなるわけで、そうなってくると、最初から毎月にしなきゃいいじゃないというのも、それはまぁありうるのだけど、そうすると、こんどは逆にじゃあどのくらいのペースでやりましょうかということになってくる。
というわけで、まとめてしまってやったことにするというのが、良い着地点と言うことにしておきたい。

さて、6-7月は主に修了制作についての準備と撮影がもっぱらの創作トピックだったわけだであるが、シナリオが中々出来上がらなかった。
なぜできあがらなかったのかを考えるのは重要なことだと思うので、ここで振り返ってみることにする。

各地の狸を集めています(写真は福島の大内宿)

①つくりながら手触り感を確かにしていくこと

これに関しては、やりながら見つけていけばよく、最初から「やりたいテーマ」「主題」などがないことそれ自体は大きな問題ではないと思う。(とはいえ、なにやりたいの?と言われたときに、一旦はこれですといった「ある種のA」はあるに越したことはないと思う。)
この「ある種のA」を色々変形させたり、積み上げたりしていくことそのものやそのプロセスを自分は面白いと感じるタイプなので、そもそも自分ひとりで考えて、完成しきったものを人に伝えるというタイプの物語における創作はあんまり自分にむいていないかもしれないというのも思った。(一方でデザインなどは自分である程度手を動かしてから見せたかったりするので、何を作るかによっても、心地良い・手触り感のあるやり方は異なるのだなとも感じる。)

個人的に重要なのは、つくりながら自分の中で形をつくっていくことである。これに関しては、自分のなかにコアアイデアのようなものを想定しながら、設定などいわゆる企画書と呼ばれるものをつくりこんでいくのが良い気がしている。今回はシナリオを完成させ、そのあとに企画書のようなものをつくるという手順で望んだ。今回は作品補足資料という名称で、キャストやスタッフにも共有したが、その共有は撮影の1-2週間ほど前になってしまい、ここまで考えてきたことのまとめ、のような形で共有をしたが、そうではなく、自分が考えながら適宜アップデートをするような文書として、シナリオと並行で書き進めていくのが良かったと感じている。
企画書(作品補足資料)には、主に、<物語のあらすじ><登場人物><演出><撮影当日の現場での進め方やそのスタンス><作品のタイトル><作品をつくるう上での参照作品>などを記載した。
これらに加えて、作品をつくる上での中心的なテーマやなぜそれをやろうと思ったのかなども書いておくといいなと思った。

②納得の美学と跳躍の美学 / 想像力の所在

今回の作品をつくるときに「納得の美学と跳躍の美学」といったものを自分の中で考えていた。
納得の美学とは物語が、しっかりと現実に接続していて、その物語世界の中で起こることに納得ができること。作品を見ていた、うーんそんなにうまくいくかなぁだったり、これはご都合主義じゃないか?などといったことを感じることなく、物語の世界を享受できることである。これは必ずしも作品それ自体の世界観が現実でなくてもよく、例えばSFやファンタジーで、私達が普段生きている日常世界とは距離感があったとしても、その作中世界に対して、違和感がなく楽しめるということである。

跳躍の美学とは、作品の中でエネルギーが大きく飛躍する瞬間があること。これに関しては自分もまだうまく捉えられておらず、いわゆるクライマックスや「ゆらぎ」などにあたるのかもしれないが、作品全体のなかで大きく跳躍をするような特定の瞬間があることや、作品そのものが独特の想像力に支えられていることである。作品を見たあとに、どうやってかんがえたらこんなものができるんだ、、、と感じたり、これはちょっと並大抵の想像力の範疇を超えてしまっているといったことは跳躍の美学の範囲の中にあるものかもしれない。
この、納得の美学と跳躍の美学は対の概念でもなければ、どちらか一方を用いるといった類のものではないのだが、なんだか重要なことの気がしているので、頭の片隅に置くようにしている。

いつぞやのヤギ

③各ショットのOKは、いかにしてOKとなるか

映画は何で語られているかというと、役者の芝居であると思う。
自分はアニメや漫画で育ってきたというルーツもあり、今回の自分の短編では演出として、ある種アニメ的な要素を取り入れてみた。
アニメの場合はすべてを描くことができる。背景も人物もすべてが描かれ、カットの連続もその連続の数だけセル画が存在し、その連続でアニメーションが出来上がる。(3Dモデルをつくったり、実際にモーションキャプチャーでリアルな人の動きをトレースするなど、いくつかのメソッドではもちろん異なるが)
映像がある程度完成したタイミングでアフレコが行われる。そこではもちろん声優の声の芝居はあるが、その場で行われる芝居は身体を伴わない。(声と身体はもちろんつながってはいる。)

今回の映画に、ある種のアニメ的なものを取り入れてみたときに、役者の芝居の要素が少し軽くなる用に感じた。今回で言うアニメ的なものとは、意図的にカットを細かく割ったり、情景描写や長回しなどを極力避けたことである。話は変わるが、シン・エヴァンゲリオンでアスカが暮らしている小屋でアスカがシンジに馬乗りになり、無理やりご飯を食べさせるシーンがある。そのシーンは軽い長回しのような形で撮られているのだが、アニメを見慣れているととても違和感がある。
直接的に今回の話につながるわけではないが、ひとつのショットを長く見せ、その中で登場人物の「動き」をみせるということは非常に映画的であると感じる。
さて、というわけで「アニメ的なもの」を映画に取り入れるとき、そこで一連のショットを断片化してしまうことで、芝居が軽くなってしまうような感覚がある。その場で起きた、一連の持続した時間という感覚が薄れ、何者かによって作られたといったようなカメラや編集の意図を強く感じさせてしまう。
(10/19:シナリオが作品全体の語りの骨格になるので、必ずしも「アニメ的な演出」が軽さに繋がるわけではない。)

もう一点、非常に重要なのは、役者がやっていて楽しい・手応えがあるという感覚である。シナリオのわかりやすさや、そこでなしたいことの確かさが必要だと思うので、それはもう少ししっかりと考えたい。濱口さんの書籍で、黒澤明の『CURE』のあるシーンについて、おそらくOKカットのあとに撮られた別バージョンが映画では使われているという話があった。まさしくそのような話で、自分/監督としては芝居でOKがでたとき、そのあとにこそ、想定していないようなものが撮れるのではないか。そのような瞬間を意図的に作れるように、監督をやるときに心がけたいと思った。

④ショットの積み重ねでもって語ること

今回、撮影にあたって<ショットリスト>を作成した。ショットリストには、各シーンにおいてどのようなショットを撮影するか。その各ショットにおいて、そのショットは何を伝えているか?を記載したものである。絵コンテではなく、各シーンのショットがテキストベースで記載されており、字コンテのような体裁になっている。今回は直前での共有になってしまったが、これはもう少し前に共有したり考えておくことの意味はあるなと思った。一方で、現場では、事前に決めたことをただ進めるだけにならないように、注意しなければならないと思う。

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映画美学校に通って1年が経ち、映画の見方や実際に作るとなったときの考え方には色々な変化があった。撮影・照明・録音など技術周りの話も色々ありつつ、とはいえ一番感じたこと、気に留めておきたいことは、
<物語はどこから形作られていくのか、どこに届いていくのか?>
ということで、ひとまずは映画を撮ろう!というよりも色々な形や関わり方で物語のことを考えたり・書いたりしたいなと思っている。
(と言っていて、2024年9月に演劇の公演に出演することになり、それにあたって稽古をしたり、演劇を見たりでとても良かった。)
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大きいテントウムシ

6-7月に見たもの

・彼の地の桜の園
・イルカポリス・サニーデイ・サービス対バン
・ファム・ティエン・アン作品上映@アテネ・フランセ
・雨と国道とベンツと私/モダンスイマーズ
・トロピカル星ダンス
・天安門、恋人たち/ロウ・イエ
・阿賀に生きる
・他人の顔
・蛇の道
・あとのまつり
・デュオ
・辰巳
・リンダとイリナ
・チャレンジャーズ
・ラジオ下神白

 2024年度は色々な種類のものを書いていきたい所存です。



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takumi watanabe
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