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”虹色の青春”

まえがき

2024年夏。今までずっと寝かせてきたドラマシリーズを初プレイしました。
その感想を公開するまでに2か月近くかかってしまったことについては弁明のしようもないことです。
筆を取るまでにかなり時間がかかってしまったのもありますが、書き始めてからもかなり時間がかかってしまいました。
毎日ちょっとずつ書いていたら、あれもこれもと色々追記することになり・・・
感想と考察で前後編に分ければよかったと後悔。
忖度なしで書いてますので、皆さん自衛をしっかりしてこの先に進んでください。あと、長いですコレ。

なぜ今さら”虹色の青春”なのか

今回はガチの完全初見でした。
人によっては「今更!?」って思うかもしれないですけど、このゲームが発売したとき、私はまだ生まれてないんですよ。
ソフトはずっと前から持ってたんですけどね。

なのになぜ今までプレイしてこなかったか、経緯については過去にツイートしています。

なのにどうして今になって突然やろうと思ったのかというと、

・・・お前らがやれってうるさいから笑

ではなく、ライブの影響だと思います。

今までは新規コンテンツっていうのが無かったので、今あるものを食いつくしたら終わりだと思ってたんですよね。
だから、どうしてもきらめき高校からの卒業を拒んできました。
人生とは喪失を受けいれていくものだとは思うんですけどね。
ただ、ときメモが動き出した今なら、ドラマシリーズを自らの中で完結させてもよいのかな、と。

このツイートをしたときに、悪意は無いんだろうが・・・FF外から無神経なリプが飛んだきたことは忘れていない。粗野で鈍感なおっさんからそういうリプが飛んでくる度、社会に絶望して鍵垢にしたくなる。
※メモラーの話ではない

というわけで、今回は本当の初見プレイ。
唯一の予備知識が、

  • サッカーをするらしい

  • 何かしら虹野さんと約束する

  • 秋穂みのりとかいうオモシレー女がいるらしい

ということくらい。
その程度のふわっとした印象だけでゲーム性やストーリーは何も知りませんでした。
以下、感想。

”ドラマ”シリーズであるということ

この作品に触れるうえで最初に意識したのが、”ドラマ”シリーズというタイトル。
サブタイトルを見れば、この作品は虹野さんに焦点を当てたものであるというのは明白です。
でありながら、Selection 藤崎詩織のような虹野さんのファンディスクとは一線を画すものであるらしい、と。
「あくまで”ドラマ”である」
つまり、これはゲームでありながら映画的な志向で作るものであるという公式からの宣言とも受け取りました。

実際、プレイしてみるといきなり映画さながらのオープニングが流れます。

キャスト名が映し出されてからの、タイトルどーーーーーん!!!

注目したいのは、このオープニング、「もっと!モット!ときめき」の後に流れること。

別に、いきなりこの映像流すだけでもオープニングとして成立する気はするんですよね。

原作履修済みの人間としては、ときメモのオープニングといえば"もっとき"と認識しているわけで、「OKOK、ときメモがこれから始まるわけね」と思っていると、いきなり見たことない映像が流れる。

いきなり画面に「虹野沙希:菅原祥子」ですよ。

ファーーーーーーーーーwwwwwwwwwww

これは完全にやられた、と。
「これはときめきメモリアルの延長でありながら、自分が今まで知ってたときメモと完全に違うんだな」と。

一気に映画的な空気に引き込まれました。
やられた・・・
公式も、”たかがキャラクターコンテンツのファンディスクの1枚”だなんて思ってないんだ、と本気を少し感じました。

そんなわけで、初っ端から公式の本気を感じたました。

映画とゲーミフィケーション

この章はプレイ中にツイートしていた内容の補足になります。

このゲームはときメモを同級生ライクにしただけかと思いきや、作り手の細かな工夫が垣間見えます。

このシーン、なんと開幕10分の出来事。

(レギュラー落ちのシーン)
開始10分で絶望の淵に叩き落される主人公。
そこからは本気で妬んだり憎んだりしているわけではないものの、上記の画像のような主人公とは思えない台詞まで飛び出します。
ただ、それでも最序盤からかなりキツい内容ではあるんですよね・・・
スポーツは結果の世界とはいえ、さすがの私も主人公にかけてあげる言葉が見つからず、「ここまでこいつを痛めつけなくても・・・」と思ったのを覚えています。

原作のときメモってここまで主人公が挫折させられることってないじゃないですか(バッドエンドのときくらい?)。
なので初見ではこの展開に衝撃を受けた人も多いのではないかと思います。

しかし、とは言いつつも客観的に見ればプレイヤーはオブザーバーでしかないわけですよね。
原作は自分好みに主人公のパラを上げていくゲームですし、結果に至るまでの選択は全て自分で決めます。
なので原作のときメモはある程度自分で主人公を作っていくという感覚を持てますが、この展開だとあくまで ”自分とは違う他者の挫折体験を眺めている” 、という感覚になりました。

この時は「結局のところ、こいつがここから成長していく話を眺めていくのかな・・・それ見ててもつまらないんだけどな」と思っていました。

はっきり言って、自分と違う人間が虹野さんと結ばれるために頑張る話なんて面白くないんですよ。
このゲーム買う人って虹野さんが好きなわけでしょ。
「お前じゃない!!虹野さんとイチャイチャしたいのは俺!!俺なの!!」って笑

正直なところ、ストーリー消化するだけの恋愛アドベンチャーは私の好みではないんですよね・・・
「他人の恋愛なんざ興味ねぇよ!」ってね笑

でも、それはある程度杞憂に終わりました。
確かに最初はオブザーバー視点なんですが、プロローグが終わって、1日の行動を自分で決められる頃になると、この感覚は徐々に変わっていきました。
主人公と自分の一体感が強まっていきました。

私が感じたコナミの工夫をいくつか紹介したいです。

プレイ中のツイートに書いてある通りなんですけど、”敢えて手間になることをプレイヤーに決めさせる”、というのがいいよねという話です。

ボールを拾う、磨く、夜練をする、虹野さんと話す、といったノベルライクのアドベンチャーゲームだったら普通やらせないコマンドを、敢えてプレイヤーにやらせることで、主人公=自分、という一体感を与えることに寄与している気がします。
さっきも言った通り、自分以外の人間と虹野さんが結ばれてるところなんて見たかねぇわけです。
そこで上手く、主人公=自分という一体感を与えつつ、ゲームとして飽きさせないようにしていますよね。没入感が増していく良い工夫だと思います。
ドラマシリーズと言いながら、
「ドラマを眺めて終わりってわけじゃねーぞ!あくまでときメモなんだから、ヒロインと結ばれるのはお前だ!!」と。

わかってるじゃねーかコンマイ。

そもそもね、なんでときメモをわざわざドラマにしてゲームにするのかって話なんですよね。
ドラマとして作り込むなら、「OVAかノベルゲー作ればよくない?」という話になるでしょう。
また、ゲームとして作り込むなら、「ドラマ要素薄めて本家のゲームシステムの延長で作れば?」となる気がします。
それくらいに本家ときメモのゲームシステムは優れていると思いますし、それでも勿論ゲームとして成立します。
でもこの作品は、”ゲームでありドラマ”なわけです。
そのバランスは恐らく制作陣も苦慮したものと思います。
言ってしまえば、相反する属性の組み合わせな気がするんですよね。
じゃあなぜこの2つを合わせて新規シリーズなんて作ったのでしょう。

これは私の推測なんですが、本家ときメモって高校3年間のシミュレーションではあるものの、高校生特有の思春期ドラマみたいなものってあんまりないじゃないですか。
しいて言えば、卒業の日に女の子が自身のコンプレックスを告白する、という要素はありますが。

だからこそ、「ドラマは需要あるのでは(売れるのでは)?」というビジネス的にも価値のある理由を持ってスタートしたのかもしれません。
ですが、ただのノベルゲーにしたのではそれはときメモではないでしょう。

他のギャルゲーだと、ドラマ要素を強くするために、大体は主人公の名前(性格)が最初から決まっているノベルゲーの形式をとることが多いですよね。
(上述したとおり、私はこの形式のゲームは他人の恋愛を見せられているようで好きではありません)

でもときメモはそうじゃないんですよ。
あくまで主人公となるのはユーザー自身。
だから客観的にドラマを見せるだけではダメで、ゲームとしてプレイさせてユーザー自身が主人公になってもらって初めてときメモになるというか。
それを当時のコナミはわかっていたのではないでしょうか。
だからOVAもドラマとしての形式ではあるものの、女の子たちの話として作ってますよね。そこにネームドの主人公なんて出して詩織と結ばれる物語になんてしちゃったら、それはもうエッチしない同級生シリーズになっちゃうんですよ笑
ときメモじゃないんですよね。

話は少し逸れますが、私は「”ときメモ”とは」を考えるときにこの視点は絶対外しちゃいけないのかなと思います。
そこをちゃんと履き違えなかった制作陣は、紛れもなくときメモのなんたるかや、ユーザーと真摯に向き合ったと言えると思いますね。


さすコナ(さすがコナミ)

ゲームとしてのトータルの感想ですが、まず結論から言うと、全体的にそこまで悪くなかったんじゃないかと思います。
私はまだ虹野さんのベストエンド?しか見れてませんが、虹野さん以外のヒロインともそれなりのボリュームで会話できるのもいいですよね。
どれも本家にはない、きらめき高校の日常らしい会話というか。

本家ってあくまで、「デートするか、下校するか」みたいな男女としての、口説けるかどうかの会話が多いわけですが、何気ない日常感ある会話は本家を何周もしてる私でさえ新鮮に感じました。
これは「主人公が虹野さん以外と結ばれない」ということが確定しているからこそですよね。

また、このゲームの半分はフリーキックが占めていると言えると思いますが、それも決して悪くなかった気がします。
ちゃんと夜練してればクリアできますし、逆に予習してないとそこそこ難しい。そのおかげで「今日も夜練するか」ってなるし、より主人公への没入感も増しますよね。
難易度も理不尽ではないかなと。
任意でサッカー攻略本みたいなアシストしてくれるアイテムも手に入ります。
あんまりミニゲームが得意でない人でも頑張ればクリアできるようにする配慮も当時の作品としては素晴らしいと思います。

ただ、ゲーミフィケーションについて言えば、正直途中までは上手く機能してた気がするんですが、虹野さんとデートする前くらいから中だるみ感はありましたね。
ミニゲームがフリーキックだけっていうのはさすがに中盤から苦しくなりました。
製作費・制作期間の問題であったり、ドラマシリーズ一作目というのもあったのでしょう。

ただ、ポジションがFWだからといってもドリブルからのシュートとか、パスとか、もうちょっと何かあるでしょう、と笑
兎にも角にもオフェンスってフリーキックのことを指すわけじゃないですよねw
「フリーキックしかやらないFWって野球のDH専以上にピンポイントなポジションだな」とは思いました笑

あと、虹野さんとの会話も後半は話すことが減ってきて作業感が増してきたのもあったかと思います。
そういう意味で、もっと前半と後半で多少違いやメリハリがあってもよかったのかな、と。
それかもうちょっと1日あたりの会話できるターン数を減らしてあげるとか。
夜練に虹野さんが来てくれるようなると、1日でもかなりの量の話題を消費できちゃいますよね。
一つの話題を擦り続けると段階的に台詞が変わるのはいいんですが、「この話題をもう1回振ったら次は違う台詞聞ける?」という確認を何度もやらないといけないのがちょっとだるかったですね。
(いや、台詞が変わった時の嬉しさがあるのは否定できないし、このシステムごと否定しちゃうのは的外れなのか。よくわからん。。。)


ドラマとしての感想

この章はドラマについての感想になります。

演出

まず、これは満場一致だと思うんですが、途中にアニメーション挟む演出はいいですよね。
最後の留守電の演出、言ってしまえば飛び道具として留守電を使うというのは男女のドラマにおいてありがちではあるんですが、そのありがちなものをものすごく丁寧に、繊細に取り扱っているなと思いました。
正直ここに関してはわざわざ多くを語る必要はない気がします。

私は思春期がちょうどガラケーからスマホの過渡期でしたので、小学生の頃は固定電話を使って友達の家に電話をかけることが度々ありました。
固定電話をまともに使っていた最後の世代なんでしょうか・・・笑

個人的にはデートが凄く楽しかったです。
本家ときメモの三択会話のデートって、あれはあれで楽しいんですが如何せんゲーム的、というか。
本当のデートって、一か所行って少し会話して帰る、ってわけではないですよね。

待ち合わせて、移動して、その間にも会話があり・・・周りの景色があって・・・
色んな建物に入って・・・最後は夕日に染まる公園に寄ったり寄らなかったりと笑

そのリアルな空気を味わえるだけでもこの作品はプレイした価値があったというもの。

あと、フォロワーさんに指摘されて気が付いたんですが、デートする街や建物が本家とちょっと雰囲気が違うんですよね。
本家のきらめき市は設定上は日本と言えども独立した世界観を持っている印象がありましたが、この作品の街や建物は当時の現実の街に近いのではないでしょうか。
(私は生まれていないので本当のことは知らない笑)

あぁ、懐かしき平成初期の空気が肺の奥まで届きそうだ

SEIVE(西武)、MOBA(NOVA)、KONAMI(KONMAI)、109など。
NOVAのCMとか懐かしいなぁ。駅前留学なんてね。
これも、敢えて我々が住む現実に近い舞台にすることで、”プレイヤー自身がが”虹野さんとデートしているという感覚を持たせたい、という意図なのかと思ったり。
意外と真面目なんです、この作品。

秋穂みのり

最初は「ドラマシリーズのため取ってつけたようなキャラだな」とか「丹下桜を出すために用意されたキャラでしょ?」と思っていました(流石に怒られるか?)。
が、彼女との関係性が変わる物語の中盤からDang Dangと好きになり、気がつけば彼女に電話かけてばかりいました。

また、突拍子もないことを言いますが、もっと彼女には苦しんでほしかったと思いました。
私は苦しんでいる人が好きです。
サディズムと言われればそうかもしれませんが、ちゃんと人生を生きてる感じが好きです。
特に、我を持つ人ほど苦しんでほしい。
そういう意味では秋穂みのりにはもっと苦しんでほしかった。

虹野さんと破局したいわけではないが、彼女とのルートももっとほしかったですね。
それでいて虹野さんと付き合いたかった。
「先輩、私じゃダメですか・・・?」と涙目で訴えてくる彼女が見たかった。
本気で恋をして、ちゃんと傷を負ってほしい。そしてそれを乗り越えて成長してほしいと思っていました。
(虹野さんと付き合えない世界線の主人公と秋穂が付き合うと共依存カップルになりそう笑)

女性特有の精神年齢の高さと、まだ大人になり切れない未熟さの2つの性質を併せ持つ♠️のもいいですね。

みのり「元気がない?いけませんねぇ。私の子の溢れんばかりの元気をあげましょう!」←ぐう可愛い
当時、丹下さんから元気をもらってたメモラーはたくさんいたんではないかなと、自らが生まれる前の世界に想いを馳せたりしてました。


ギャルゲー的テンプレートの限界と映画

これも制作費や製作期間の問題はあったと思うんですが、もう少しアニメーションは増やしてもよかったのかな、と。
これはどのギャルゲーにも思っているんですが、ギャルゲーのゲーム画面だとどうしても高校生だけが持つ距離感みたいな、青春の距離感が伝わってこないんですよ。
例えばデートは、学校生活の時とは全く異なる距離感になるはずなんですよ。
それを、「背景があって、立ち絵があって、テキストウィンドウ」というギャルゲーのテンプレの構図で表現できるのか、と。
私はギャルゲーに対してずっとこの疑問を持ち続けてきました。
そして、このテンプレートは映画的な画と対極に位置するものだと思います。
この話に関しては、特に具体例を用意するのは難しいので抽象的な話になってしまいますが・・・

映画ってホームビデオじゃないので、日常を日常としてそのまま映してしまうと観客は飽きますよね。
非日常的に見える瞬間が必要というか。
そのためには、そのための構図が要ります。映画としての画を作る必要があるわけです。
ただ、ギャルゲーのテンプレってスチルイベント以外は基本的に画が常に変わらないですよね。
決して、そのテンプレを使うなと言いたいわけではないんですが、デートという非日常ではもう少し演出を凝ってほしかった。
「ギャルゲーとしては悪くないんだけど、ドラマをやるゲームとしては惜しい」というか。

(以下愚痴)
デートっていうのは、本来相手の呼吸が聞こえるくらいの距離感だと思うんですよ(比喩ではあるが)。

画面からそれを感じてしまうくらいに作ってほしかった。

帰りのバス、虹野さんが寝ちゃうシーンがあるんですけど、なぜか寝顔を見せてくれない。
(主人公のモノローグのシーンなので虹野さんの表情を見せないのはわからないでもない)
バスで隣に座ってれば聞こえるだろ!!
見せろよ!!!!!!!
これは俺の願望だけど!!!
でもそういう、”あとちょっとで触れられる、もどかしい距離”ってのを見せてくれよ!!!
デートっていうのはそういうもんだろうが!!!!!

カフェで茶しばくときもそうだ!!
好きな女の子と一緒にご飯食べるんだよ!!!
それが、立ち絵と背景とテキストウィンドウだけで済ませて言い訳があるか!!!
(好きな人と食べるご飯に特別感を感じるのは私だけでしょうか笑)

同じ立ち絵で表情変えればそれはギャルゲーだよ。
でもそれでいいのかよ!!!

デートをしたからなんなんだ。一緒にランチをするからなんなんだ。
だからなんだってことをもっと詰めてほしいんだ。
セル一枚の女がね、股間に張り付いて、それがただのセルだったら突き抜けちゃうよ!
でも、そうならないようにする。そうしてそこ残ったものを”肉付き”というんだ。
ギャルゲーでもそういうのを感じさせてほしいんだよ。


デートも終幕、夕暮れの中央公園。
夕日に染まる公園なんてロマンティックですよね。
なのにね、こいつら立ってんのよ。
立ち絵なの。
おかしいよ!笑
デートの最後なの。表向きには部活の買い物なの。荷物持ってんのよ。
座るだろ普通!!
普段夜まで部活動してるとはいえ、夕日に照らされる虹野さんなんてなかなか眺められないですよ。
それが本来ベンチや草っ原の隣で見えるはずなんだ。
これが学校とは違う距離感ってやつなんだ。なのにこいつら立ってやがる!!笑
しかも普段の立ち絵と同じ距離感で!!
別にまだ付き合ってるわけでもないからイチャイチャしろとは思わんが、座れよアベック!

しかもこのシーン、主人公が虹野さんから部活に勧誘された理由が聞けたり、主人公の決意が固まったりと、結構大事なシーンなんですよ。
「なんでこんな大切なシーンを謎のスチル1枚と立ち絵で済ませてしまうんだ・・・」という気がしてならなかったのですが、どうやらこのイベントはクリアに必須ではないらしい笑

制作側としては、あくまでこの作品の見せ場はラストの「指切りしたじゃない!」の部分なんだと思います。
また、私はこのシーンが後半への転換点だと思っていたために、ラストの展開に違和感を覚えることになった気がします(詳しくは後述します)。

前述した「ギャルゲー的テンプレートは映画を作れない」、という主張について。
「じゃあどうするべきだったと思う?」と聞かれても今の私はこの問いに答えを持ち合わせていません。
絵を動かしまくればいいわけではないでしょうし、ゲームとしての楽しさを崩してまで映画に拘るなら最初から映画を作ればいいということになるでしょう。
勿論、私は作り手ではないので回答を用意する義務はありません。
しかし、これからもギャルゲーについて考え、向き合っていくつもりではあります。故にこの問いについても自分の中で放置する気はありません。
私はギャルゲーがこの問題を乗り越えたときこそ、恋愛シミレーション"ゲーム”が”恋愛シミュレーション”に進化する瞬間になると思います。
そういう意味では、”あいたくて…”が目指した”恋愛シミュレーション”はまだどの作品も到達できていない気がします。

”ゲーム”が”シミュレーション”に劣るか、といえばそんなことはありませんけどね。


ベンチ、ちゃんとあるよ。でもなんか背景もロマンティックではないね。



シナリオについて

ここからは適当を色々ぶちまけます。
最初に謝っておきたいのが、私はこの作品のストーリーをあまり肯定的に評価できなかったということです。
メモラー間でどういう評価になっているかはわかりませんので、過激派もいらっしゃるかもしれませんが、どうか自己防衛をよろしくお願いします。

本音

正直、途中までは悪くなかったと思いました。
秋穂みのりというスパイスは王道の青春物語を単調にすることを許さなかったし、決してテンポも悪くはなかった気がします。
ただ、どうしても自分にとってこの作品の後味を悪くしてしまった要素がありました。それに関しては何がなんでも看過できないと思ったので正直に書きます。

何が納得できなかったかというと、ラストの展開のほぼ全て。主に好雄の扱いですね。
これマジで当時はどんな評価だったんでしょうか。皆さんこれをニコニコしながら見てたんだろうか、と暫く考えました。
具体的にどこに疑問を抱いたのか記録として残しておきます。

物語終盤、主人公は虹野さんと秋穂みのりの会話を立ち聞きしてしまいます。

「才能ないのかなぁ」

この言葉に主人公は自分にはサッカーの才能なんて最初から無かったのではないかと落ち込みます。

そこで声をかけてきたのが好雄。
「虹野さんがお前に優しくしていたのは同情していたから」
「虹野さんはその優しさゆえに色んな男を勘違いさせている」という趣旨の内容を主人公に吹き込みます。

このシーンを見たとき、思わず出た言葉は「好雄はそんなこと言わない」。
本編初登場時の飛影なら言うかもしれない。知らんが。

私の中で好雄って、”アホだけど気遣いはできるキャラ”というイメージだったんですよね。
「ナンパはするし、女の子に色んな事聞いたりするけど、相手が嫌がってたらそれ以上はしない」というか、必ず一線は超えないバランス感覚のあるキャラだと思うんですよ。
じゃないと学校中の女の子のデータを集めたり、ダブルデートをセッティングしたりできないと思うんですよね。
それなのに「虹野さんがお前に優しくしてたのは同情してたから」なんて言うはずがないと思いました。
好雄は悪友でもデリカシーの無いキャラじゃねぇよ。

本家において好雄って女の子が主人公をどう思ってるか教えてくれるキャラですよね。
なのに冗談でも「別に虹野さんは同情してるだけじゃね?」みたいなこと言っちゃったら、それはもはや好雄じゃないんですよ。
本家とは別世界線と言えども、この作品でも女の子からの評価は好雄に聞くことになってますし。
また仮に冗談だったとしても、間接的に友達に「お前は才能無いんだよ」って言ってるようなもんですからね、好雄はそんなこと言いませんよ。
だからこのシーンは早乙女好雄というキャラクターを扱う場合においての禁忌を犯している気がします。

あと、この好雄の面をした化物、「最近虹野さんと仲いいらしいじゃないか」って話しかけてきますからね。
からの「虹野さんは悪気なく男を勘違いさせてしまうんだ。お前以外にも被害者がいるぜ」というのはあまりにも悪魔の所業すぎないか。
あと、これを冗談だと思ってるなら翌日ダブルデートに誘う意味がわからなくなります。
攻略本には「冗談」と書いているが本当か?
好雄のオタクよ、あなたにはこのシーンはどう映りましたでしょうか。

あと、翌日に紐緒さんと鏡さんのダブルデートをセッティングできるのは意味わからんというか、ご都合主義的だと思いました。

一番あり得ない組み合わせというか、仮に成立しても落ち込んでる主人公のためにセッティングするときのメンツではないでしょう笑
仮にメンツが先に決まっていたとしても、この2人とデートするメンツに落ち込んでる主人公突っ込むのはさすがに2人も被害者というかw

あと、起こるのも当然とはいえ、二人ともずっとブチギレててマジで気分が悪くなりました。

この時の好雄の言動もなんか違うんだよなぁ・・・
判断力や分別が微妙に足りていない人間の振る舞いをする人というか、
なんかシェイクスピアの道化っぽい滑稽さがあって気持ち悪いんですよね。
うーーーん

また、勘違いがあったとはいえ、「指切りしたじゃない!」の翌日に虹野さんとの約束ブッチしてダブルデート行く主人公に関しては色々思うところはあります。
が、ここは物語にオチをつける都合上仕方ないとしましょう。ここはまだいいかな。

ラスト。
正直ここもよくわかりませんでした。
虹野さんの本心を知り、改めてレギュラーになりたいと決心する主人公。
ただ、翌日の対抗試合でいきなり「レギュラーだったやつが怪我したからお前試合出ろ!」で「やったー」は無いでしょうw
ハッピーエンドみたいな面してますけど、これただの棚から牡丹餅ですよね。
「俺、レギュラーになるまで諦めないよ」って誓わせるんだったら、もうちょっと過程を描かないとその決心が薄く見えませんか?
ちょっと勘違いがあったからって不貞腐れて練習に身が入らなくなるようなやつが、改心した翌日に棚から牡丹餅。それをハッピーエンドのように見せるのはあまりにもお粗末でしょう。
決心なんて誰でもできます。結局主人公は何も乗り越えられてないですよね。
成長の物語である必要性は無いと思うんですが、それでも物語のオチってテーマに対しての結論でもあると思うので、それがコアラッキーなのは混乱しました。
せめてもうちょっと、乗り越えようとする過程は見せてほしいというか。
そういう意味で、このシーンは中盤にあってもよかったのではないかと思いました。
(そうするとラストにもう一つ展開が要ることになりますが)

乗り越える=レギュラーになる、ではないとは思いますが、落とし所があまりにも雑かなと。
コーチも最終的には「本当はお前の練習ぶりを評価してたぞ」みたいな感じで描きたかったのかもしれませんけど、コーチが主人公を気に掛けるシーンとか全くないですからね。
なんなら試合の2日前にに「やる気ないやつはグラウンドから去れ」みたいなこと言って帰らせてますし。これが愛の鞭的なやつなら、もっとコーチと主人公の絡みを描写しないと。
描写されてるところだけ見ると、

5/2 コーチから「才能が無いと思っているんならやめてしまえ」と言われ、そのまま帰ってしまうZ世代(空想上の生き物)ムーブ

5/3 部活が休みなのでダブルデートへ。やっぱりレギュラーになりたいと再決心

5/4 練習試合。棚ぼたスタメンのコアラッキー勝利。

という流れ。

虹色の”青春”と言うのなら、青春として成長の物語にするなり、もうちょっとマシな落としどころはあったはずです。
これはただのコアラッキー物語でしょう。
8/31を過ぎて、徹夜明けの9/1の朝に書いた夏休みの宿題の作文、みたいなやっつけ仕事の雑さを感じました。
もうわからんよ私は。

あと、なんで主人公は「才能」というワードに固執するんですかね。
これもよくわかりませんでした。
主人公「俺、才能無いんですかね」→コーチ「そう思っているのなら、さっさとやめてしまえ!」の会話もわかりません。
能力と才能って別ですよね。脚本家はなんでこのワードに拘ったんですかね。
この言葉を最初に使ったのは(秋穂みのりとの会話中の)虹野さんですが、主人公が自分のことを言われてるんだと勘違いしても、「だとしてもこのワードをずっと引っ張るのか・・・」と個人的にはあんまり共感できませんでした。
虹野さんの言葉だから気にしちゃったのはあると思うんですけど、ゲーム的にはこの頃ってそれなりに高レベルのフリーキックまで達成していて、練習試合も間近って状態ですから。
今更才能を気にするか・・・?


考察してナイト

ここから虹色の青春の考察になります。
「こんな げーむに まじになっちゃって どうするの」とか言ってはいけない。

秋穂みのりの特異性と女性性

虹色の青春のおもしれー女こと、秋穂みのり。
まずは主人公のライバル(?)的なポジションである彼女について考察していきます。

放課後のフリーキックイベントをクリアすると、放課後は秋穂みのりと部室で二人きりになることができます。
放課後、誰もいない部室に男女二人。何も起こらないはずもなく・・・

なんと秋穂を丸裸にできちゃいます。

・・・プライベートなことを色々聞けるということです、はい。
とくに、彼女の内面について聞けるのは放課後のタイミングだけです。
ここでは色んな話が聞けます。

料理や編み物が得意なこと、実は沢渡のことは好きというわけでもないこと、虹野さんを好きになった経緯など。
ここで特に注目したいのが彼女の初恋について。
初恋の話題を振った時に彼女から聞ける内容をまとめると以下のようになります。

  • 年上が好き、というより同級生はみんな子供に見えて恋愛対象にならない

  • 過去に気になった異性は従兄の佐伯さんと美術の石田先生

  • 在学中、石田先生は結婚。相手は言動が虹野さんに似ている家庭科の先生

  • 「あんな点数稼ぎしかできない女の何がいいんですか」と詰め寄ったところ、ひとしきり話を聞いた石田先生が放った言葉は「もっと女らしくなれ」

  • 躍起になって料理と編み物は身につけてみたが、石田先生の真意とは違う解釈をしたのではないかと感じている

過去に虹色の青春をプレイした皆さんも、あらためてこうやって見ると彼女の異質性を感じませんでしょうか。
ときメモのヒロインでここまで自身の内面について語るキャラやシーンは他に無いんですよね。
告白のシーンでは色々語ってはくれますが、秋穂みのりは攻略対象でもなければこのシーンは告白でもなんでもないです。
しかも結構ボリュームありますからね。
ドラマシリーズとはいえ、ぽっと出のキャラにここまで内面を語らせるというのは何か意味があると考えるのが自然だと思いますのでもう少し深掘りしていきます。

注目すべきは石田先生の「もっと女らしくなれ」です。
今だったらコンプライアンスの名のもとに抹殺されそうな発言ですが、この言葉を額面通りに受け取った秋穂は、石田先生の意図を正しく理解できていなかったのではないかと薄々感じています。
ですが、彼女は既にその輪郭を掴みかけていました。
そしてそのきっかけになったのが虹野さんであると言えます。
注目すべき台詞は以下の通りです。

「実をいうと私、最初は虹野先輩のことあんまり好きじゃなかったんです」
「人のためになにかしてあげるのって、なんか点数稼いでるみたいで・・・」


虹野さんの話題を振ると聞けます。
振る話題の順番にもよりますが、これと同じ理屈が後で別の話題を振ったに出てきます。
勘のいいひとは既に気付いているかもしれません。
そうです、石田先生が結婚したときの話です。

「石田先生、結婚したんです。おんなじ学校の家庭科の先生と」
「その家庭科の先生が、ちょうど虹野先輩みたいな人で…(中略)…私それが気に入らなくって」
「なんであんな料理と裁縫しかできない、他人の点数稼ぐだけの人がいいんですか、って」


石田先生から「女らしくなれ」と言われたのはこの時ですが、この時はこの言葉の真意が理解できていませんでした。そのため、彼女は虹野さんに出会ったときもこの時と同じように、虹野さんの行為を他人の点数稼ぎと思い、毛嫌いしました。
しかし、虹野さんの利他的な行為には打算や損得勘定ではないことを知り、文字通り感動した秋穂は、あのとき石田先生に言われた「もっと女らしくなれ」の意味について再考します。
彼女はこの言葉の通りに料理をし、編み物をし、これらを能力として習得しましたが、身に着けた能力は自分のためにしか使っていないことが明確に語られています。

セーターを1シーズンで10着も編みましたが、それは全部自分用に作ったものでした。料理も家庭料理は一通り作れるみたいですが、誰かに振る舞ったという話は出てきません。あくまで自分自身の生活で役に立った、という程度に語られています。

料理や編み物の能力において、作中で語られている限りだと虹野さんと秋穂に大きな差は無いと思われます。
しかし、虹野さんと秋穂にはその能力を何のために使うか、というところに明確な違いがあります。
秋穂は能力を自己実現のためだけに使います。決してエゴイストではありmせんが、能力の使い方についてはそれ以外の使い方を知りませんでした。
逆に虹野さんは能力を他者のために使います。そしてそれは損得勘定に基づいたものではありません。
そして、虹野さんは自分に能力があるからそうしているわけでもないのです。本人曰く、「自分がそうしたいからやるのよ」というのが彼女の理念のようです。
こうして、秋穂は自分が本来嫌いなタイプであるはずの虹野さんを逆に好きになってしまったが故に、石田先生の言葉の真意を誤解していたのではないかと感じ始めている、というのが部活後の会話からわかります。

ここまで掘り下げてしまうと、この秋穂の内面は虹色の青春の副題にもなりそうな気がしてきますが、この話は作中でこれ以上掘り下げられることはありませんでした。
この中途半端さは、まるで上質な食材を下茹でしただけで棄ててしまうような行為だと思ったので私はもう少し掘り下げます。

まず、ここまでで秋穂と虹野さん(=石田先生の奥さん)の考え方の違いを明らかにしました。
石田先生の発言は女性性について言及した発言にも見えますが、「実際はジェンダーについて言及したかったわけではない」というのが私の考えです。
ツイフェミが見たら発狂しそうな発言ではあるものの、主人公の言動から照らし合わせるに、制作はジェンダー論を絡める意図があったわけではないことが伺えます。

ということで、今度は主人公の言動について掘り下げていきます。

秋穂みのりの異質性は名前にも及びます。
普通、「みのり」と言えば「実里」と書くことが多いと思います。
私は当時の名前の流行はわからないので全く的外れな指摘かもしれませんが、ときメモヒロインってどれも80年代後半〜90年代初頭にいるような名前のイメージなんですが、「みのり」って書くとちょっと2000年っぽいというか。
より現代に近い感じがします。
あと、「秋の穂の実り」という苗字と名前が意味として繋がっているのもときメモヒロインっぽさを感じさせません。
こういったところも、彼女の異質性を際立たせている気がします。
実際、作中で本人に「冗談みたいな名前ですよね」と言わせてるところを見ると、意図的な演出である気はしますね。

「若者のための物語だからこそ、より今風に」ということなんでしょうか。


青春ラブストーリーと思っていたが

この作品について、プレイする前に私は大きな誤解をしていました。
このゲームは虹野さんとイチャイチャしまくるドラマゲームだと思っていたんです。
が、主人公としては「虹野さんに密かに想いを寄せている」程度で、練習を頑張るのはあくまで「レギュラーになりたいから」という思いが強いように感じました。
しかし、物語の中盤、主人公の行動理由に変化が訪れます。
デートの帰りに主人公はこう独白します。

「虹野さんがしてくれたことのたとえ10分の1でも、どうやったら返せるんだろう・・・(中略)・・・一生懸命であることが少しでも恩返しになるのなら、せめて一生懸命でいよう」

今までは「虹野さんと付き合いたい」「レギュラーになりたい」から、「虹野さんがしてくれたことに少しでも恩返しをしたい」と、自己実現から他者のためと志向が変わっていくというシーンなんですね。
これはつまり、前述した秋穂の物語の繰り返しです。
わざわざそれ以上深掘りしない新キャラを主人公と重なるようにしているというのは意図的な演出と考えるのが自然でしょう。
これはある意味、「誰かのために一生懸命になることに男女は関係ねぇ!」という話でもあり、石田先生の「女らしくなれ」は決してジェンダー論としての発言ではないと言える気がします。
(秋穂の発言から察するに、清潔感とか微塵も気にしてなさそうな人なので、言ってしまえば素朴で飾らない人なのでしょう。だからこその言葉選びなのかなと思います)

この主人公の「一生懸命であることが少しでも恩返しになるのなら、せめて一生懸命でいよう」の「せめて」とは「たとえ才能や実力が無くても、虹野さんのために一生懸命であるという態度だけは曲げちゃいけない」という意味だと思っていました。
だからこそ、前述したとおり不貞腐れて練習やめる主人公に納得できなかったというか。
もうちょっと踏ん張ってほしかった。
こういうときに投げ出してしまう人が虹野さんに相応しい男といえるだろうか、って勝手に思ったり笑
今作の本筋と細かなイベントで分けて、2人の人間がシナリオ描いてるんじゃないかって気がしました。変にちぐはぐだったり中途半端だったり。
話としての柱はあるからちゃんとしてるように見えるけど。


俺たちはどう生きるか

最後に。令和6年に虹色の青春をプレイして、若者なりに色々考えてみた。

この作品が発売された97年に比べて日本はどう変わっただろう。
良くなったろうか。ミレニアム世代としては、悪くなったのではないかと思う。
80年代から始まっていた、父性の機能不全。
男は弱くなり、それに伴って女も狂い始めた。
この流れが虹色の青春が出たときにも既に可視化されていたことは、エヴァなど当時の作品を見ればわかる。この流れは2000年代になっても止まることなく進行し、草食系男子はついに弱者男性に到達した。そして女はさらに病的になってしまった。
今の時代の狂った女に比べれば、秋穂みのりの個人主義は他者への攻撃性が少ない分まだ可愛いと思える。
この作品の表のテーマが「青春」だとすれば、裏のテーマは「自己実現と自立した個人」だろうか。
自己実現への志向によって真に自立した個人になれる時代は終わったんだろう。

弱者男性という言葉が流行り言葉として使われるようになってしまったこの時代に、虹色の青春冒頭の主人公のような男性性の困難を抱えている人は少なくないどころか、今の時代になってよりこの作品の主人公に共感できる男が増えているんだろうという実感がある。
では、この作品がそんな我々弱者男性への処方箋になるのか。
少なくとも、現実を生きる我々には虹野さんのような無条件に尽くしてくれる母性の具現化みたいな人はいないだろうし、現実の女性に母性を求めることは時として暴力にさえなりうる。
「じゃあ俺も主人公みたいに誰かのために一生懸命になろう!」と思っても、それこそ勘違い男(ストーカー予備軍)みたいな存在になってしまうのが関の山な気がする。
そして、男は自らの力で弱い自己から超克し強いオスになる、というのも難しい話だ。そもそも、どこかでそれができていればこんな時代になっていない。
この八方塞がり感が現代の弱者男性を取り巻く環境なのだろう。
だが、それでも我々は生きていかねばならない。
確かに、前述したとおり現実の女性に母性を求めることはある種の暴力になりうるが、虹野さんは何も言わずとも我々に優しく寄り添ってくれる。
彼女がフィクションの存在であるからこそ、我々は無条件に彼女に救われることができる。これこそが救いだ。
しかし、こういった主張は「弱いオスがオタクとして二次元に依存しているだけだ」と某メンズコーチや、極度の不安で強いオスに抱かれていないと安心できないような、狂ったメス(病気の女)から常に批判にさらされてきた。
確かに、オタクという言葉の流行りが弱くなったオスを象徴していたのは間違いないだろう。
だが、「男らしさ」が死に、それが美徳から悪徳とさえ扱われるようになった今の時代だからこそ、フィクショナルな母が我々を自立に向かわせることができるのではないだろうか。
もちろん、古のオタクよろしく綾波レイに依存してセンズリかくだけの人生を送ることはできる。
でも、そうじゃない道も今なら見えるかもしれない。

上手く言葉にするのは難しいが、母胎としての虹野さん(ときメモ)に甘えながら、それでも自立に向かおうという態度というか。
これは傍から見れば二次元コンテンツへの依存だけど。
「虹野さん(ときメモ)、助けてくれ!!」と叫んでいるだけなら依存だが、そう叫びつつ「それでも俺はこの現実を生きてみせるぞ!!」と奮起しているのならこれは依存だろうか。
この構図こそが現代の弱者男性の目指せる自立なんだろうか。

虹野さんに支えられながら、そんなことを考えていた。
というのも、虹色の青春では本家ときメモより、より彼女の献身性が描写されていたし、菅原さんの演じ方も本家とは少し変わっている気がした。
どういう演技指導や意図があったのかはわからないが、個人的には母が子に語り掛けるようなテンポや抑揚だと感じていた。
何かこれについてインタビューの記事とかあったら誰か教えてください。



僕らを支えてくれている虹野さん、ときメモに少しでも恩返しができるだろうかと考えるが、こんな記事も、グッズ購入も、フラスタも、何もかも俺たちの自己実現でしかないんだ。
彼女たちはフィクショナルな存在だから。
それでも、彼女たちは今日も僕たちに微笑みかけてくれる。

僕たちは明日も辛い現実を生きていかねばならない。
夜空を見上げれば星々が僕らを見守っているように、ゲームの中で自立した彼女たちが僕らを遥かなる宇宙から照らしている。


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