書き散らし 柿ちらし寿司

6月末 新幹線
久しぶりにスマホが低速になった。低速だと普段穴が空くほど見つめているXのTLが更新できない。できても画像が読み込めないので、画像付きで「これはやばいだろwww」のような投稿を見てしまったら最後。「これ」が何なのか気になって気になってしょうがない。気を紛らわすためにインスタを開く。ハイハイそうでしたインスタも見れないんでした残念残念!と心の中で叫ぶ。溜めていたLINEを全て返し、オフラインでもできるクソゲーを開く。つまらなくてすぐやめる。不要な写真を削除し、謎のメモを消し、未読のGmailを既読にする。

低速でなにもできないし、せっかくだからnoteを書くことにする。

その前に家族のお土産用に買ったシュガーバターの木14個入りを開ける。駅弁は高いからなにも買わずに新幹線に乗り込んだが、空腹に打ち勝つことができなかった。結局駅弁と同じくらいの価格の、薄水色の箱がおじゃんになった。美味しい。初夏を感じる色の袋と箱だ。美味しい。そういえば昔かほちゃんが東京土産にくれたな。美味しい。

今日大学の授業で工藤直子の随筆を読んだ。内容は今私が書いている文章と同じように、些細な日常を切り取ったものである。なにも特別な事は起こっていないはずなのに、その随筆には特別感があった。文字に鮮やかさを感じ、文字を目で追うだけで光景がありありと思い浮かんだ。着眼点も、語彙も、文の構成も、やはりプロはすごいのだと、実際に自分も文章を書いてみて初めて気付く。

思えば小説や詩、短歌や俳句も、実際に自分で書いてみて始めて、プロの作品のすごさに気がついたと思う。それまでは長い文を書くことは難しいけれど、詩なんて短いし小学生だって書けると思っていた。たしかに can/can notで考えると「書ける」のだが、読み手の心をグッと掴む、美しい言葉を並べることができるかと問われると答えはNOである。

高校生の頃ベテランちが好きで、YouTubeをよく見ていた。たまにXに短歌を投稿しているのを見て、短歌って季語いらないし、現代短歌なんて5-7-5-7-7の形じゃないものばっかりだし、誰にだって書けそうだなと思っていた。これまたcan/can notで考えれば「書ける」が、この短歌のどこがすごいんだろう?と考えれば考えるほど、31音全てに意味があり、指と指を交差させる手の繋ぎ方のように、温かく、力強くそこに存在している。各単語、各文字はくどくないのに、作品全体を見た時に心がザワつくから短歌はすごい。読んで心を動かされ、自分でも何個か書いてみて、プロのすごさに感動し、自分の足りなさに絶望する。こんなにも心が動かされているのに、プロってすごいとしか繰り返せない私の語彙を怨んでいたら、乗り換え駅に着いた。

私も人の心を動かすことのできる、美しく力強い文章を書けるようになりたい。

YAZAKIの広告を見てYAZAWAに空目する。人間の脳は「世界」と「YAZA」まで見たらYAZAWA以外思い浮かばない仕組みになっているので仕方がない。シュガーバターの木は14個入りから10個入りになった。うちは4人家族なので、全然大丈夫。余裕です。

隣の席でサラリーマン2人組がロング缶のビールを飲んでいる。大学4年生、社会人になることを意識した年。今まで社会人に対して、スーツを着た大人、くらいの解像度だったけど、今は違う。居酒屋で大騒ぎしていたら仕事でいい事あったのかな、頑張っててすごいと感じるし、電車でスト缶を握りしめていたら大丈夫かな、頑張ってて偉いと思うし、ホームで死んだ目でスマホを見ていたらそりゃ疲れるよね、お疲れ様ですと心の中で呟いている。こうやって大人一人ひとりの努力で、この世界は回っているんだな。私が今座っているこだまの椅子、転がらないように足で抑えてるスーツケース、来ている服、線路、電気、全部全部誰かが作っているんだと思うと、なんだか不思議な気持ちになる。椅子を作っている人は、この青い布を作っている人に思いを馳せているんだろうか。布を作っている人は、糸の生産者に、塗料の生産者に思いを馳せているんだろうか。糸の生産者は、土と、水と、太陽に思いを馳せているんだろうか。とにかく、この世は全て誰かの努力によって支えられているんだ。

ぐるぐるととりとめのないことを考えていたら疲れた。窓に映っている自分が思ったより背高くてビックリした。シュガーバターの木は美味しい。エビマヨは自分で作ると安い。最寄り駅だ。

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