何度も書いているのだけれど、今日は僕の盟友であるところの”石見亮太”の撮影だった。ある事柄において、同じような悩みを抱え、ほぼシンクロした気持ちになれるのは僕らくらいだろうということで”同志”の意味で”盟友”と書いている。詳しくは割愛。
5年前、僕がミュージシャンだった時代に石見と知り合い、その当時はときたまイベントなどで会えば話す程度の仲だった。その後、僕は音楽をやめてロッククライミングの道へ。話すことはおろか連絡すらとっていなかったから、正直もう縁はないと思っていた。だがしかし、神様はイタズラがお好きなようで、僕が写真家になってからのタイミングで再開。写真家とミュージシャン。この組み合わせは思っている以上に、素直にお互いの間合いを溶かすし、惹かれ合うもののようだ。
まさかこんなに面白いやつになっているなんて。と、お互い思っただろう。
音楽を直向きに続けてきた石見と、音楽からロッククライミングから写真家へとコロコロ変わり続けているシバタ。この5年間はひとを進化させるには充分な時間だった。彼の”音楽”は出会った頃とは比較にならないほどに厚みと深みを増したし、人間としてもなんだか大きくなっているように感じた。こりゃすげえな、と素直に感心した。僕の方はといえば、単に浮気性みたいな書き方をしたけれど、人並み以上に悩んだり、傷付いたりしながら今の生き方に落ち着いたのだ。僕だって芯の部分は変わっていない。ずっと表現者なのだ。
今回の撮影が実現したのも必然だった。僕は石見を撮りたかったし、石見も僕に撮ってほしいと言ってくれた。こういう必然という名の奇跡は、本当に嬉しいし、心から感謝したい。撮りたい人を撮れるチャンスを神様が与えてくれたのだ。
そして、こういう面白いヤツは何かを引き寄せる。
撮影中、ある老夫婦に出逢ったのだ。石見のギターに惹かれ、プレスリーが聴きたいと乞う。それに石見は誠心誠意応える。いい時間だった。そしてみるみる素敵な表情になっていく二人。
「撮りたい」
素直にそう思った。僕はその気持ちを体現するかのようにそっとカメラを構えた。おばあちゃんはニコリと笑い、応えてくれた。こういう一期一会のセッションの緊張感は写真を撮るうえで至高の醍醐味だ。心が躍る。とても素敵なご夫婦だった。
「私はいま、とってもしあわせ」
そう言い切る彼女の瞳はきらきらと輝いていた。こんな風に「しあわせ」を写すことができて僕もとってもしあわせな気持ちになった。石見と僕が今日味わったファンタジーのような瞬間は紛れもなく現実だ。この”ひと”がもつ”しあわせの温度”を僕は写し続けたい。
この一期一会をカタチにするために、写真にしてお渡しすることを僕は約束した。
石見、今日はありがとう。
シバタタツヤ