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”旅と「暇と退屈の倫理学」”というおはなし

久しぶりに旅に出掛けた。

いつ以来だろう。コロナ禍前まではあんなに頻繁に出掛けていたのにたぶん4年ぶりとか5年ぶりだろうか。冬にはスノーボードに頻度良く出かけるから移動は多いほうであるとは思うし、友人と泊まりで雪山に行くこともある。つい最近は舞鶴の宿づくりのお手伝いをしたこともあり、舞鶴は今年だけで4回か5回は泊まりに行っているはず。でも”久しぶりに旅に出掛けた”と思った。なぜだろう。こうやって文字に書いてみると、仕事とかアクティビティとか何か具体的な目的を持たない且つ一人で移動する旅行のことをボクは旅と言いたいのかもしれない。あくまで至極個人的な仮説として。

40度近い気温が続く京都を飛び出して、秋の訪れを感じる札幌に行った。目的は特にない。仕事を一緒にさせてもらっている仲間たちと現地で合流し現地で解散する旅程。出発前に積読の中から何気なく一冊の本を鞄に放り込んだ。國分功一郎さんの「暇と退屈の倫理学」。忙しい時期に50ページくらい読んでそのまま読めずにいた本。

行きの飛行機で読み始めたとき「あぁなんてこの旅に相応しい本なんだろう」となって、移動中と待ち時間はずっと読んでいた。國分功一郎さんのお見事過ぎる暇と退屈についての考察はぜひ読んでいただきたいの一言ではあるけれど、旅の御供にすることを特にお勧めしたい。旅には暇や退屈がたくさんあって、暇と退屈の倫理学について向き合う時間があるから。

すごくざっくり言うと”人生を楽しめ”と言ってくれる本を携えながら、”人生を楽しむ”ために”移動をする”こと”気晴らしする”ことの豊かさを再認識させてくれるから。そして消費することにまみれた生活に何かのきっかけを与えてくれる。iPhoneはなかなか手放せないんだけど。

たぶん行った先が札幌というのも良かったのかもしれない。すすきのの街はとても活気があった。京都の夜とは違う、インバウンドに頼りすぎない喧騒、隠れ家みたいな良い音を提供してくれる酒場、縛られない時間を持て余していた時代を思い出させてくれる場所だった。暇と退屈をどう気晴らすかって考えていたころのクリエイティビティを思い出すというか。もちろん一緒に行った仲間も良かったんだけど。

”人生は暇つぶしと思い出づくり”・”死ぬまで生きる”なんて言葉が割としっくりきているボクにとって”旅と「暇と退屈の倫理学」”はボクの”おいかぜ”になってくれた。

これからの5年・10年は”旅をすること”が個人的なキーワードだなぁ。

というおはなし。

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