”経営者の孤独”と”既成概念の境界線”の相関のおはなし - はたらくデザイン読本 vol.5 -
経営者の孤独。 - 土門蘭
「社長は孤独である」という言説は正しくて正しくない。そして正しくなくて正しい。
スタッフが自分の気持ちをわかってくれないとか、自分と誰かの立場が違うとか、そういときの社長あるいは経営者の気持ちである。たぶんおそらく。
孤独とは?孤独なのは社長(経営者)だけなのだろうか?という著者の仮説を元に徹底的に経営者の孤独に向き合った本書は経営者にとって示唆深い内容である。そして経営者でない全ての人の孤独についての解釈の物語である。
ボクは26歳で会社経営をはじめた。20年以上の経営人生で”孤独である”と感じることは多々あった。大事なスタッフが辞めていくとき、資金繰りが苦しくてお金のことが頭から離れないとき、驚くほどトラブルが重なって胃が締め付けられるとき。特に会社のお金や人材に纏わる苦しい気持ちを社内の誰かと分け合うことは難しい。全てを社長が背負うことになる。
しかし忙しいとかトラブルとか苦しさがそのまま孤独に繋がるかというとそれは違うだろうと思う。大変な状況に陥っていても孤独を感じないときもある。
では孤独とは何だろうか?
”孤独とは分断である”と言い切るにはボクの人生経験が足りていない気はするが、この言葉に手がかりはあると思っている。本書の経営者たちは様々な”わかり合えなさ”を語っている。それらを孤独と言い換えている。
経営者は孤独に向き合える人が多い。ボク自身もそうだと思う。感覚的に孤独を受け入れているというようりは分断を認識している・分断に向き合っているという言葉が近い気がしている。最初から”わかり合えなさ”を前提としているから”孤独”と向き合える。孤独を感じないとか孤独を受け入れるという言葉は正確ではないかもしれない。”孤独と向き合う”が近い。
”はたらくデザイン”における”既成概念の境界線”に纏わることは”孤独と向き合う”話である。
経営者が何か新しいことにチャレンジするとき”既成概念の境界線”を飛び越える。境界線の内側の人たちは飛び越える者の気持ちがわからないことが多い。逆も然りである。飛び越えた先を明確にイメージできる者とイメージできない者の”わかり合えなさ”である。つまりは”孤独”の話。
飛び越える者も飛び越えずに境界線の内側にいる者どちらにも孤独はある。お互いの”わかり合えなさ”だから。
ボクが”はたらくデザイン事業部”でやりたいことは分断の緩和である。既成概念の境界線を行き来することである。分断や境界線自体が無くなることはない。つまり孤独自体をゼロにすることはおそらく不可能だ。だからこそボクは分断と向き合う。
「社長は孤独である」という言説は正しくて正しくない。そして正しくなくて正しい。
社長だろうと社長じゃなかろうとすべての人は孤独である。”わかり合えなさ”は世の中に溢れている。おそらく”社長には社長の孤独がある”という言葉が正しい。そして”みんなそれぞれに孤独がある”ということだ。
だからボクは会社という枠組みの中で”既成概念の境界線”という分断に向き合い続ける。スタッフや関わる人たちにその”分断の存在”を伝え、”分断を緩和”させたい、ボクやおいかぜに関わるすべてのはたらく人たちに漂う”わかり合えなさ”を取り除きたい。
最後に本書で一番ボクの心に深く刺さった言葉を。互助交通の中澤さんのインタビューより。