女という被害を乗り越えるカウンセリング−2

第二話

カウンセリングはあまり間を空けるのは良くないそうで、私は二週間後の今日もマンションの一室で、カウンセラーと向き合っていた。
「緑茶と麦茶と烏龍茶、どれにしますか?」
精神科の診察室では飲み物が出てくることはないが、ここではサービスなのかお茶を出してくれる。
「麦茶で」
カフェインを体に入れてしまうと、感情が高ぶってしまうかもしれないので、麦茶を選んだ。しかし、薬の副作用で常に喉の渇きに悩まされている私はいつもバッグにペットボトルを忍ばせている。
ソファに腰掛けると、カウンセラーがノートとペンを取り、こちらを見据える。今日も大きなフープイヤリングとグレーのカットソーを着こなし、指にはゴールドの指輪が光っている。できる女、という雰囲気があり、普段だったら萎縮してしまうが、カウンセラーだと思うと安心した。この人なら私の悩みに回答を与えてくれるはずだ。

「最近の悩みは、お金のことです。お恥ずかしいのですが、私は40歳を過ぎてもパートで働いていて、月の収入は十万ちょっと。障害年金を受給しているので、なんとか生活はできていますが、年収は二百万くらいです。転職もうまくいかないですし、この先もずっとこの生活が続くのかと思うと死にたくなります。今は、副業で文章を書いているので少し年収が増えましたが、仕事がなくなればそこまでです。自分はずっとお金のことで苦労してきました。子供の頃、父が家に入れる給料が少ないので、母はいつもピリピリしていて、お金は人から優しさや心の豊かさを奪うというのを痛いほど感じました」
私は素直に今の悩みを吐露した。
「お父さんがお金を家にいくら入れていたのか、当人ではないので、はっきりわかりません。一度、父に会った時、きちんと入れていたというのですが、私たち家族が送っていた生活は余裕があるとは言い難かったです。習い事も満足にできませんでしたし、中学生か、高校生の頃、母は自分たちで電話した分は自分で払えと言って、子供たちにお金を請求していました」
子供の頃の思い出を話していると、次に次に過去のことが思い出されてくる。
「父は博打が本当に好きだったんですけど、子供にまで賭けポーカーをやらせてきました。賭け金は父が子供に手渡すんですけど、勝った負けたでお金が家族の間を行き来するというのは、今思うと、教育上よくなかったと思います。負けた方は悔しくて勝った方を憎みますから。博打といえば、父は休みになると、私にお小遣いを渡して駅前のキヨスクまで競馬新聞を買いに行かせました。「一馬」っていう新聞が父は好きで、それ以外は読みません。一緒に買うのが「デルカップ」という高麗人参とかが入っている小さいお酒で辛口を買わされました。お小遣いがもらえるからと毎週買いに行っていたんですけど、キヨスクのおばさんはどう思っていたのでしょう」
私は麦茶をごくごくと飲み干すと、さらに続けた。
「父と一緒に競輪場にも良く行っていました。暇だったのもあるけど、行くと必ずお小遣いをくれるのでそれが大きな理由でした。父は1レース数百しかかけないのですが、最後までいれば必ず一回は当たるんです。そうすると千円とか二千円くれるので嬉しかったです」
私は話しながら、自分の気持ちを思い出して丁寧に紐解いていった。
「お小遣いといえば、子供の頃から父は『なんでもいいから一番になれ、一番以外は意味がない』と言っていて『なんでもいいから一番になったら十万円やる』と言っていました。私はそれがすごく悔しくて、絶対に1番をとって父の鼻を明かしてやると、選択式のテストで現代文だけを取って受けました。普通は受験の時に古文と漢文があるので、現代文だけ受けるというのはあまり意味がないんですけど……。学年で一番を取って、結果の紙を父に見せました。父が喜んで褒めてくれると思ったら、忌々しそうな目で私を見るんです。『一番とったよ!十万円くれるんでしょ!』と言ったら、父が私をシカトするんです。仕方ないので、怒鳴ったら一万円札を投げて寄越しました」
そこまでの話を聞いてから、カウンセラーはおもむろにこう言い放った。
「お父さんは自分に自信がなかったのでしょうね」
私はびっくりして声を上げた。
「あの父に自信がないんですか?いつも威張って怒鳴ってばかりいる父が」
「自分に自信がないからお金を使って人を操作していたのでしょう。お金がないと人が動いてくれないと信じていたのではないでしょうか」
そう言われると、父が昔「俺は自分に自信がないんだ」と弱々しく言っていた姿が思い出された。一年前、私が本を出版したのをネットで知って、父が出版社に電話をかけてきたのだ。その後、無事に10年ぶりに再会を果たし、一緒に入った居酒屋で父はそんなことをこぼしていた。私にとって、父は大きな謎のひとつだった。広島で育ったといっているが、お墓は東京にあり、どこでどのように育ってきたのか、話してくれたことがない。二度目に会った時、父に子供時代の話を聞かせて欲しいとお願いした。
「全部話します」
突然、真面目な顔をして、父は語り始めた。

父の両親は東京で暮らしていたが、お金がなくて、父を育てることができず、広島の曽祖母の家に預けていたのだ。父は愛人である曽祖母と、よそに家族を持っている男性との間で子供時代を過ごした。「二人を見ていると、普通の夫婦じゃないというのは、なんとなく理解できた」と父は語った。父の妹だけは、東京の両親の元で育てられていた。しばらくして、東京の両親にお金ができたので、父は東京に引っ越しをした。戦地から帰ってきた祖父と、祖母と、妹と一緒に暮らし始めたが、あまり幸福とはいえない暮らしだった。祖母はお金を稼ぐために、ホステスとして働いていて、父はそれがとても嫌だったそうだ。夕方になると綺麗な着物に身を包み、家を出る祖母に「普通の仕事をしてくれ」と泣いてすがった。祖父はシベリア抑留から帰ってきたが、その後遺症のせいか、家ではずいぶん暴力を振るっていて、年がら年中外をほっつき歩き、滅多に家に帰ってこなかった。たまに、早く帰ってきた祖父は「こうやって、屋根のある家で暮らさせてくれて、ありがとうございます。食べることができて、心から感謝しています」とお祈りを始めるのだが、しばらくすると、またどこかに出かけてしまう。東京の下町の一部屋しかない小さなアパートで、父は妹と一緒に夜を過ごした。
「おじいちゃんのことは好きだったの?」
私が尋ねると、父は語り始めた。
「おじいちゃんのことは好きだったよ。たくさん映画に連れて行ってくれたからな。今じゃ無理だけど、映画館の裏口からこっそり入って、いろんな映画をたくさん見たよ」
戦後の下町で、祖父と一緒に映画館に行き、人混みの中でスクリーンに夢中になる父の姿が目に浮かんだ。白い幕の上に映し出される、冒険活劇や、アメリカの裕福な暮らし。父が映画好きになったのは、この頃の体験が元になっているのだろう。しかし、育った家庭が完全なる機能不全家族だったことは事実だ。
「そんな家庭で育ったんだから、自分が家庭を作った時は、いい家庭にしようと思わなかったの?」
父は俯いて、泡がなくなったビールの表面を見ながらつぶやいた。
「普通の家庭っていうのがわからなかったんだよな。だから、自分が家庭を作っても、どうしてもうまくやれなかった」
父の懺悔を聞きながら、私はそれでも父を理解することができなかった。どんな家庭を作ればいいかわからなくても、自分が育った家庭をそのまま再生産するのはおかしいのではないか。

「お父さんもお父さんなりに辛い思いをしたんですね。だからといって、妻や子供に暴力を振るっていいということにはなりません。お父さんは自分に自信のない一人の人間だったのでしょう」
カウンセラーの言葉を聞いて、力があり強大であった父が少し小さくなったのを感じた。父も私と同じ、力のない弱い人間なのだ。
「大事なのは、ここなんです。自分の中の大きかった親の姿が小さくなっていき、存在感が小さくなると、悩みも小さくなっていきます」
私は力強く頷いた。確かにこんな作業は医者にはできない。カウンセリングならではだろう。
「父と再会した時、父とLINEを交換したんです。そこまでは良かったんですけど、それから毎日のように父からLINEの嵐です。仕事中にもずっとくるし、大事な用件でもない。返事はいらないから、とか書いてあるけど、一方的に送られてくるのもプレッシャーだし、読んでいると人種差別とか女性差別の発言があまりにも多すぎて、嫌になってブロックしてしまいました」
ハハハと自嘲気味に私は笑った。カウンセラーはただ私の言葉を聞いているだけだった。笑いながら本当の私はちっとも笑えていない。実の父親をブロックするなんて気持ちのいいものじゃない。私だって本当は気軽に電話したり、会うことができる父親が欲しかったのだ。自分の中の父親が等身大の大きさになれば、会いたいという気持ちはなくなるのだろうか。それとも、父を許すことができて、良い関係を結べるようになるのだろうか。
「今日はお金の話からいろいろなことが見えてきましたね」
カウンセラーの締めの言葉を聞いて、財布から一万三千円を取り出す。カウンセラーを信頼しているけれど、お金を差し出す時はいつも苦しい。苦痛を和らげるために来ているのに、お金が取られるのは釈然としないし、お金を渡すことによって、両者の間に力関係が出来上がるからだ。しかし、今の私はこのカウンセラーに守り導いてもらうことが必要なのだ。次のカウンセリングの予約を入れてマンションを後にした。


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小林エリコ
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