女という被害を乗り越えるカウンセリング-3

いつものように職場に行き、デスクでパソコンに向かっている時、突然、兄から過去にされたことを思い出した。子供部屋で私の体に触ってきたこと、股間に顔を埋めていたこと。今まで生きてきて、何度、このことを思い出してきただろう。そして、何度「忘れるしかない」と自分に言い聞かせてきても、当時の怒りや悲しみは一向に消えない。まるで昨日のことのように思い出す。そして、ほぼ毎日それは起こる。普通の人には信じられないかも知れないが、私は何十年間もこの思い出と共に生きている。電車の中で目的地に向かっている時、食事をしている時、いついかなる時も過去の出来事が蘇り、怒りを反芻し、そして飲み込む。せめて、思い出すのが一週間に一回くらいになればいいのだが、それを操作することは自分ではできない。兄のことだけでなく、父や母のこと、学校でのいじめ、あらゆる過去の心の傷が、なんの予告もなく叫び出し血を滲ませる。私はそんな日常をずっと生きてきた。

カウンセリングの日、いつもと同じようにマンションの一室でカウンセラーと向かい合う。出された麦茶を飲み干して一息つき、私は喋り出した。
「今週は、兄への怒りがたくさん沸きました。兄から股間を舐められていたことを思い出しました。その中でも一番気持ち悪くてずっと忘れられないシーンがあります。兄が私の股間を舐めている時、やめてもらいたいので『オシッコするよ』と言ったのです。そう言ったらやめてくれると思ったのですが『別にいいよ』と兄は言いました。本当に、反吐が出そうでした。お風呂場で裸になっている時に、上に乗っかられている時のことも、思い出します。記憶がないけれど、本当に兄は私の体にペニスを挿入したのかも知れません。なんていうか、犬畜生以下ですよね。人間じゃないです。お風呂場から出た時、兄は自分の勃起したペニスを見せてきました。私はペニスが勃つということを知らなかったので『へー、すごーい!』などとはしゃいでいたのですが、意味を知っていた兄がそれをやっていたと思うと……。」
私は涙ぐんでしまって、テーブルにあるティッシュを数枚手に取って涙と鼻水を拭いた。兄の思い出が止まらない。私は喋り続けた。
「兄は友達が多くて、いつも友達と遊んでいました。兄が家に友達を呼んでファミコンをやっている時、私は家にいたのですが、トイレに長いこと入っていたら、兄の友達は私が下痢をしていると思い「ゲリオ!」って呼んだんです。私はショックだったけど、言い返せませんでした。そしたらそばにいた兄も私に向かって「ゲリオ!」って呼んでゲラゲラ笑ったんです」
そこで、カウンセラーはピタリと動きを止めて口を挟んだ。
「それはいじめじゃないですか!」
私はビクッと体を硬くした。それがいじめだと考えたことがなかったのだ。兄が妹をいじめるなど、あり得ないと考えていたのだ。
「そうですよね、確かに、いじめですよね」
俯きながら私はあの時、家に母は居たのだろうかと考えた。兄からの「いじめ」はいつもあったが母が兄を叱ることは一度もなかった。
「他にも、夜に子供部屋にいる時、兄から『好きな人はいるのか』と聞かれました。最初いないと言ったんですけど、しつこく聞かれるので、答えました。そうしたら、その人の名前を兄は大声で団地の外に向かって叫ぶんです。『小林エリコの好きな人は〇〇!小林エリコの好きな人は〇〇!』って」
私は羞恥心を覚えながら告白した。
「ひどいじゃないですか!」
カウンセラーは私の代わりに激怒した。真っ直ぐに怒りを示す彼女の顔を見て、私がされたことは怒っていいことなんだとはっきり分かった。私は兄の行動全てが理解できなかったし、兄の行為に対して名付けることができないでした。兄は私にとって家族であり、決して責めてはいけない存在だと、社会の規範で決められているからだ。
「でも、兄のことで理解できないことがあるんです。そうやって、私に性虐待したり、いじめたりしながらも、私を助けたことがあるんです。私が小学三年生で、兄が小学六年生くらいだと思います。性虐待も始まっていた頃です。家族旅行でホテルにあったプールに入った時、プールの底で深いところがあって、私は溺れてしまったんです。その時、兄が助けてくれたのですが、今でもそれが理解できません。兄は私のことが嫌いだったのか、そうでなかったのか。他にも、高校生になった時、バイト代で突然プレゼントを買ってくれたことがあって、そういうのも理解できませんでした」
カウンセラーはゆっくりと答えた。
「それは、力のあるものが力のないものへの行為としては筋が通っていると思います。なんというか、上から下への力の行使としてはあり得ることです。性虐待も、溺れた時に助けることも、プレゼントも、全て力のあるものしかできないことです」
私はゆっくりとその言葉を噛み締めていた。私はようやく兄の行為が理解できるようになった。意味の分からない生命体だった兄の姿はカウンセラーの言葉を得て、ようやく人としての形ができ始めた。

「兄は今結婚しています。私にはそれが信じられません。なんであんなことを妹にしておいて、結婚して子供を作ることができるのか謎です。そういえば、兄が結婚する時、少し揉めました。私が精神障害者だからという理由で、お嫁さんの家族の方が結婚を躊躇していると母から聞かされました。そして、母が『向こうの家族が妹の様子を見てみたいというから、一緒にご飯を食べにいって欲しい』と頼んできたんです。私と母と、お嫁さんのご両親で食事をしました。私は頭がおかしいのがバレないように一生懸命、綺麗に箸を使って食事をしました。無駄なことは喋らず、普通のフリをして頑張りました」
私は喉から絞り出すように屈辱的な思い出を語った。そうしたらカウンセラーは怒りをあらわにした。
「なぜ、その時に、声をあげたり、箸や食器を投げたり、おかしいふりをしなかったのですか?そうやったっていいはずです。兄の結婚をぶち壊しにしたって構わないじゃないですか!」
私はカウンセラーのその言葉を聞いて、驚いてしまった。そんなことをしていいなんて考えたことがなかった。私が母の命令に従わないこと、兄の人生を壊すこと、そんなことを妹の私がしていいなんて、想像すらしていなかった。
「そうですよね……。なんでそうしなかったのでしょう。やっぱり、家族だからでしょうか。私は家族の形を壊したくなかったのかも知れません。そうやってずっと頑張ってきたからだと思います」
答えながら、目の前のカウンセラーが私のために怒ってくれることに感動していた。長い人生で、私の味方になってくれる人は本当に一人も現れなかったのだ。

「ちょっと試してみましょう。指示棒の先を見つめてください。一番、気になるところ、感情の動きを感じたところで止めるので言ってください」
カウンセラーは指示棒を伸ばすと二メーターくらいの高さを指した。そして、徐々に下に下げていく。
「ストップ」
ちょうど一メーター五十センチくらいのあたりで指示棒を止めた。
「何が見えますか?」
私は指示棒の先の空中を見つめた。何もない空間を見ていると、私を見ながら馬鹿にして笑っている兄の姿が浮かんだ。
「兄が私を馬鹿にして笑っています」
そのまま私は答えた。
「今の兄への怒りの感情を数字にすると幾つになるか、1から10で答えてください。1が怒りの感情が全くない、10が最大の怒りです」
カウンセラーが質問してきた。
「10です」
私は即答した。
「では、自分の中の間違った信念について教えてください。自分は絶対に幸せにならない、とか、私は不幸であるとか、そういったことです」
間違った、という言葉に躓いてしまうが、カウンセラーの言いたいことを理解して、
「自分は絶対に幸せにならないというのがあります」
と、答えた。
「それでは、何か自分の心が安定するものを思い出してください。場所でもいいですし、好きな人物、キャラクターでも構いません」
心が安定するもの、なんだろう。今の彼氏は好きだけど、実際の人間だと雑念が浮かびそうだ。場所やキャラクターの方が良い気がする。
「うーたん、ですかね。Eテレでやってる子供向けの番組に出てくる黄色のぬいぐるみです」
ちょっとどうかと思うチョイスだが、うーたんのことは本当に好きで、ぬいぐるみまで持っている。カウンセラーは特に反応もせず、言葉を続けた。
「では、うーたんのことを思い出しながら、棒の先を見つめてください」
そういって、指示棒を左右にゆっくりと振り始めた。顔を動かさず、眼球だけ動かして指示棒の先を追う。頭の中には、うーたんの笑顔が浮かんでいる。
「では、次に、お兄さんのことを思い出してください」
そして、また指示棒をカウンセラーは動かす。しかし、次の動きはずいぶん早い。目で追うのがやっとだ。兄のことを一生懸命思い出しているのに、目を動かしていると兄の記憶がうまく思い出せない。30秒くらいすると、指示棒がぴたりと止まった。
「何か思い出したことはありましたか?」
「そうですね、私が高校生くらいで、兄が専門学校生の時、家族が全員居間にいたことがあって、私は台所で包丁を使っていました。私の家はすごく狭い団地なので、居間に四人集まると隙間すらないくらいでした。そのせいで、兄は私の真下に寝転んでいました。その時、包丁を滑らせておっこしてしまって、兄の顔に当たりそうになったんです。兄は「あぶねー」とびっくりして避けて、母は私を叱りました。その時私は、本当に包丁が当たって死ねばよかったのに、と思いました」
ずっと自分の中に仕舞い続けていた記憶を思い出した。

「もう少し続けてみましょう」
カウンセラーが再び、指示棒を動かす。素早く動く指示棒の先を必死で追いかける。思い出しながら、眼球を動かすと、記憶の底に眠っていたものが呼び覚まされる。ピタリと指示棒が止まったのを合図にして、私は喋り出した。
「家族会議をしたことがあります。私が初めて自殺未遂をして、精神病院に入院して、退院した後です。家族を全員集めて、兄の性虐待について確認させ、謝罪させました。性虐待は本当にあったという確認にはなりましたが、精神的に楽になることはありませんでした」
カウンセラーはノートに何か書き込むと、指示棒を出して、空を指した。
「いま、ここには何が見えますか?」
私はじっと目を見据えた。その先には背中を屈めて私に謝っている兄の姿があった。片手を立てて「すまない」といったふうにジェスチャーしていた。
「謝っている兄が見えます。多分、今のカウンセリング代を兄が払っていることが作用していると思います。毎月お金を振り込んでもらうようにしているのですけど、正直、2回目は払ってこないと思っていました。けれど、この間見たら振り込まれていて、一応、反省はしているんだなと思いました」
カウンセラーはこちらをみて頷いている。
「兄への怒りの数値は幾つになりましたか?」
「そうですね、8くらいでしょうか」
「間違った信念は変わりましたか?」
「いや、変わらないです。私は絶対に幸せになりません」
口に出すと、なんだか自分が可哀想になった。全ての人間は自分の幸福を実現するために生きているはずなのに、私は絶対に幸せにならないという信念のもとに動いている。そんな信念に沿って生きていたら、私の起こす行動全て、不幸を呼ぶものになって当然ではないか。自傷行為、自殺未遂、自分を傷つける恋愛。私の間違った信念は私の人生に大きく影響している。そして、それは今でも揺るぎないものであり、支配し続けている。


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小林エリコ
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