女という被害を乗り越えるカウンセリング−1
私の目の前に、若い女性が背筋をピンと伸ばしてゆったりとした椅子に腰掛けている。真っ黒なパンツスーツに身を包み、耳には大きいゴールドのループピアスが揺れている。短くカットされたショートへアのせいか、ピアスがとても目立つ。手元には緑色のノートとペンを手にしていて、左手薬指にはゴールドの指輪が光っている。
「それでは、始めましょうか」
私は先ほど、彼女からもらった名刺をカバンにしまった。名刺には臨床心理士という肩書きが印刷されており、それは私を安心させた。挨拶に反応して、頭を下げる。ここは駅前にあるワンルームマンションを利用したカウンセリングルームで、風呂場やトイレは使っている様子があまりなく、室内だけ仕事場として機能しているようだ。
カウンセラーが注いでくれた麦茶に口をつけ、気持ちを落ち着ける。今日は生まれて初めて、高額のカウンセリングを受ける。通院していた精神科に併設されている保険適用のカウンセリングは受けたことがあるが、お世辞にも良いものとは言えず、心ない言葉をカウンセラーからぶつけられて、そのまま行かなくなった。それ以来、カウンセリングに良い印象を持っていなかったのだが、友人がカウンセリングでEMDR(Eye Movement Desensitization and Reprocessing:眼球運動による脱感作と再処理法)を受けて劇的に効果があったという話を聞いたこと、現在かかっている精神科医がPTSDを専門としており、EMDRを勧めてきたのがきっかけで、私も意を決して受けることにした。
EMDRとは、眼球運動により、トラウマ記憶を再処理し、PTSDには非常に効果を発揮するそうで、エビデンスもしっかりした心理療法である。うつ病や統合失調症など何度も病名が変わったが、現在は複雑性PTSDと診断されている。過去の兄による性虐待、子供の頃の学校でのいじめ、父親の暴力、そして、母の無関心。それらが複雑に絡み合い、たくさんの傷が開き、私の心は再生するのが困難になった。PTSDの二次障害として、重度の鬱、不眠、希死念慮、また、精神薬の副作用によって便秘や倦怠感も激しい。10代の頃からずっと服薬を続け、自殺未遂は計4回。精神病院への入院も4回経験している。
「それでは、困っていることをお話ください」
細いけれど、自信のある声が室内に響く。戦いの火蓋は切って落とされた。ここでなら、何を話しても大丈夫。私の家の中で起こった汚いこと、酷いことを話しても、絶対に安全なのだ。
「最近、母への怒りが酷いんです。夜になると、特にその兆候が酷くて、兄の性虐待から私を守ってくれなかったことや、希望の進路に進ませてくれなかったことを思い出すと、頭が沸騰したようになって、夜中でも構わず母に電話をしてしまいます。母はひたすら『ごめんなさい』を繰り返すのですが、それでも怒りはやみません。けれど、1時間くらいたってくると母は『私も苦労していたんだ』と自己弁護を始めるのです。それがまた、頭にきてしまって。話し疲れて電話を切るんですけど、二週間くらいすると、また怒りが湧いてきて、ラインで暴言を送ったりします。母は『私が悪かった、私は子供を産む資格のない人間です』と平謝り。母に謝られても、私の怒りは全く止みません。この間は、お風呂に入っているときに突然、母への怒りが湧いて、お風呂から出て全身ずぶ濡れのまま、母に電話口で怒鳴っていました。もう、母に怒るのをやめたいのです」
私は一気に捲し立てた。カウンセラーは表情ひとつかえず私の顔を見ている。
「お兄さんから、性虐待があったんですね」
その言葉に刺激されて、私は話を続けた。
「兄による性虐待が始まったのは、小学校2年生か、3年生ごろです。家は団地でリビングを含めて3部屋しかなく、兄と一緒の子供部屋に寝ていました。ある時、兄が私の体を触るようになり、嫌だったんですけど、何も言わず我慢していました。次第にエスカレートしてきて、兄は私の股間に顔を埋めるようになったのです」
その言葉を聞いて、カウンセラーは顔をしかめた。言葉は何もなかったが、私はそれだけで救われる思いがした。そうか、私がされたことは、大人の女性が嫌悪感を顔に出すくらい酷くて最悪のことなのだ。
「その行為は一年位続いていました。その他にも、当時、兄と一緒にお風呂に入っていたのですが、兄は風呂場で私に仰向けになるように命じたのです。そして、兄は私の上に覆い被さりました。私はその後の記憶が消えています。まるで弾けたシャボン玉のようにパアンと消えてしまっています。あの後、何が行われたのか覚えていません。他にも、祖母の家に泊まりに行った時にも、兄に嫌なことをされました。祖母の家だから、今夜は何もないだろうと踏んでいたのですが、間違いでした。私は兄の性虐待が始まってから、お風呂に入らなくなりました。私が臭くて汚ければ兄がその行為をやめると思ったからです。しかし、そのせいで、学校でいじめに遭うようになりました。一ヶ月に一回しかお風呂に入っていないのですから、当たり前ですよね。その当時、熱が下がらなかったり、常にお腹が痛かったり、肩が凝ったり、涙が止まらないなど、あらゆる不調が出ていました。原因が分からなくて、母と一緒にずいぶん大学病院を巡りました。ある時、おへその周りにドーナツ状の出来物ができていて、痒くて仕方なく、母に訴えたところ、皮膚科に連れて行ってもらったのですが、原因が分からず、都内の大学病院まで行って検査しました。出来物を小さなシャーレに入れて調べてもらった結果、医者から言われたのは『不潔にしているからです。清潔にしてください』でした。大学病院にまで行かせてもらえているのに、お風呂に入ることができないなんて、おかしいですよね」
私は自嘲気味に笑った。カンセラーはピクリとも表情を変えず、手元のノートに何かを書き込んでいる。
「兄の性虐待は始まってから1年後くらいに両親に見つかりました。夜の子供部屋に両親がやってきたのです。その現場が見つかった時は大変でした。両親の悲鳴と怒声。父が兄をひっぺがし、蹴りを入れていました。母は私を別の部屋に逃してくれました。怒鳴り声はずいぶん遅くまで続いていて、兄が死んでしまうのではないかと怖かったです。それからは両親が使っていた寝室を私の部屋にして、リビングで両親が寝ることになり、子供部屋は兄一人の部屋になりました。それは、嬉しかったのですが、兄の部屋にはテレビとビデオとファミコンがあるので、兄がいない時に、部屋に入り込んでゲームをしていました」
そこで、カウンセラーがペンを止めた。
「兄の部屋にテレビもビデオもゲームもあるんですか?なぜ、そんな立派な部屋をいることが許されるんでしょう。あなたが被害者でそこから出る羽目になったのに」
私はびっくりしてしまった。そうか、そう考えてもいいのか。いや、普通ならそう考えるべきなんだ。私は兄から酷い性被害を受けたのに、兄の方が恵まれた環境を与えられているなんておかしいじゃないか。その時、頭の上の方に「両親は私より兄を愛している」という巨星が去来した。
「そうですね……。言われて初めて気が付きました。あと、兄と部屋が別々になっても、性虐待は続いていました。お風呂から出た時、兄は自分の部屋を暗くして、私の裸を見ているんです。脱衣所はドアがない代わりにカーテンがあったので、気がついたら閉めるようにしてたんですけど、家の中で神経を使うのが嫌でした。それに、まだ小学生でしたし。母に『お兄ちゃんがお風呂上がりに裸を覗いているから注意して』と何回も頼みましたが、収まらなかったので、注意していなかったと思います。他にも、夜寝ている時に、なぜか下半身がスースーして目を覚ますと、兄が私の布団を一枚一枚めくり上げ、パジャマのズボンを下ろし、下着に手をかけていました。私が起きたことに気が付いたら、部屋から出て行きましたけど」
私は呼吸を一つして続けた。
「いつも思うのは、なぜ、兄を警察や児童相談所など、公的なところに通報しなかったのか、または、親戚に預けるなどしなかったかということです。母に聞くと『児童相談所なんて当時は知らなかった』って言うんですけど、探せばどこか相談機関はあったと思うんです。子供の頃、たくさん行った大学病院の中に、精神科らしきところもあったので、そこで相談することもできたと思います。結局、両親は自分の家の恥を隠したのです。あったことをなかったこととして、普通の家族を続けたのです。ただ、私は兄と別々の部屋になってから、PTSDの症状が起こるようになりました。悪夢や悪霊を見るようになり「お化けが襲ってくる」と言って布団の中で汗だくになって泣いていた記憶があります。父が不憫に思い、遠くの神社へ行ってお守りを買ってきて、私に持たせてくれました。あの頃、私は自分に霊感があり、悪霊に取り憑かれていると本気で信じていたのですが、大人になってからPTSDの後遺症だと知りました。当たり前ですけど、そんな状態なので、学校も休んでばかりになり、次第に勉強に追いつけなくなりました。中学に上がってからもいじめが続いていたので、精神的にもボロボロでした。自分の過去を振り返ると、もし、子供の時に兄から性虐待を受けなかったら、違う未来があったのではと想像します。小学生の頃は勉強が得意でしたし、中学生の時も、散々な状態でありながら、中の上くらいの成績だったので、頑張ることができる環境で育っていたら、もっと良い人生が送れていたのではと考えてしまいます。私は結局、人生が始まったばかりの時に、自分の未来を失ったのです」
目から涙がこぼれ落ち、私はカバンの中からハンカチを取り出して拭った。
「でも、母には申し訳ないという気持ちがあります。父はいつも酔っ払っていて、帰ってくると、母を怒鳴ったり、殴ったりしていました。頭が悪いとバカにすることも多かったです。家にあまりお金を入れなかったので、母はいつもイライラしていました。家で内職をしていて、私は母の内職を手伝っていました。簡単なものは手伝えるのですが、超合金のおもちゃの組み立ては難しくてできなくて、申し訳なかったです。学校で教材を買うことになって、母にお金をお願いすると、困った顔をしました。その時はお裁縫セットを買わなければいけなかったのですが、母は物置から空になったお菓子の空き缶を取り出して、お裁縫箱を自分で作りました」
その言葉を聞いて、カウンセラーはこちらを向いた。
「変わってますね。普通、作る方がめんどくさいじゃないですか。買った方が楽なのに」
「そうですね。楽するよりも、お金が手元に残る方が大事だったんだと思います。学校でバスの運転手に花束を渡すから、花を一輪持ってきてくださいと先生に言われて、それを伝えたら、母に雑草を渡されました。母は節約のことしか頭になかったのでしょう。お金をかけてもらえないということは愛されていないということにも繋がります。自分でお金を稼ぐことができず、親に育ててもらわなければ生きていけない子供にとって、親というのは全知全能の神のようなものです。私は母が好きだったので、毎年、母の誕生日に肩叩き券を作って渡していたのですが、使ってくれたことは一度もありませんでした」
「子供が肩叩き券を親に渡すのはよくあることだし、親は喜んで使うものですけどね」
「……やっぱりそうですよね。普通、使いますよね。あと、小学生の時、母の日に毎年、カーネーションをプレゼントしていたのですが、大人になってから当時のことを聞いたら、全く覚えていないと言われてショックでした。数年前、母が子供の頃、私からもらった母の日のカードが出てきたと言って見せてくれたのですが「ダメな娘ですみません」と女の子が謝っているイラストが描かれているカードでした。お店で買った既製品で、そこには私の手書きのメッセージはひとつも入っていません。県展で入賞した版画の作品や、金賞をとった絵画作品や、学校でもらった賞状を母はひとつもとっておいていません。でも、あの時の母は本当に大変だったので、仕方ないと思います。毎日、父の暴力で大変でしたし、浮気もしていました。夜の12時近くなると、毎晩のように喧嘩が始まって、父が母を怒鳴る声がふすま越しに聞こえるのです。ある夜、母がふすまを開けて『エリちゃん、お母さん離婚していい?』って聞いてきた時、私は両親が離婚したらこの家にいられなくなると思って『離婚しちゃヤダ!』と泣いてしまいました。あのことは今でも後悔しています。私がいるから母は離婚できなかった。私のせいで、母は暴力に耐えながら専業主婦を続けなければならなかったと思うと申し訳なく思います」
カウンセラーはペンを手にしたまま、口を開いた。
「あなたがお母さんに罪悪感を感じる必要はないです。お母さんはそういう相手を自分で選んで結婚したんですから。自分でその生活を選んだんです。離婚しなかったのも、主婦という立場を捨てたくなかったからでしょう。それに、お母さんは大人なのだから、自分でアパートを契約して家を出ることもできるし、仕事を探すこともできます。それに、実家に帰ることもできたでしょう」
「母になぜ、実家に帰らなかったのか聞いたのですが、その時、母の姉が精神疾患になっていて、大変な状況だったので戻れなかったそうです」
「それでも、自分の両親に今の状況を話せば『帰ってこい』と向こうから言ってくるでしょう。それを話せないというのは、お母さんも親との仲がうまくいっていないのではないですか」
私はその言葉を聞いて、パッと上空から光が差し込むのを感じた。母と母の両親の関係なんて、今まで考えたことがなかったのだ。
私は過去のことに思いを巡らせた。母の実家は北海道にあるため、まめに帰ることができなかったけれど、数年に一回は帰っていた。その時、祖父母が母を心配しているそぶりは全く見せなかった。母は夫のことを両親にどこまで話していたのだろうか。
「そういえば、母は美容師の資格が取りたいと言って、祖母に相談したことがあると最近聞きました。その時、祖母は『女が働いたら、男が仕事しなくなるからやめなさい』と言われたそうです」
自分で口を開きながら、絶望する。祖母はもしかしたら、父の暴力を知っていたかもしれない。知った上で「もう少し我慢しなさい」などと諭したのだろうか。
「もう少しでカウンセリング時間が終わるので、ちょっとこの棒の先を見てもらえますか」
カウンセラーが指示棒を取り出して、長く伸ばした。
「今から少しずつ動かします。何か感情が動く場所があったら、止めてください」
私は棒の先っぽに視線を集中させた。床から一メートル七十センチあたりの位置から徐々に下に降りてくる。そこから四十センチ近く下になったあたりで、私はストップをかけた。
「何か浮かんでくるものはありますか」
カウンセラーの問いかけを聴きながら、棒の先を眺める。そこを眺めていると母の姿が浮かんだ。
「……母がいます。こちらの方を見ています。……侮蔑しているというか、蔑む目で私を見ています」
自分で言いながら意外だった。私は子供の頃、母の視線をそんな風に感じていたのか。
カウンセラーがシュルシュルと指示棒をしまいながら「EMDRに向いてそうですね」と答えた。
「小林さんは、兄からの性虐待以外にもたくさんの辛い経験があります。イジメもですし、両親のこともです。色々な被害体験が重なり合っているので、回復には時間がかかります。何回のセッションで終了するかということははっきりと申し上げられません。ただ、回復には年単位かかると思います。治療費も高いので、無理な時ははっきりおっしゃってください。最初に決めておきたいのは、どの地点をセッション終了とするかです。これから治療を進めていくと、過去の記憶が今ほど鮮明に思い出せなくなってきます。過去の強烈な記憶が普通の記憶と同じくらいの質量になります。ですので、今のままが良いのであれば、そうすることもできます」
「今のままにしたい人も中に入るんですか?」
「裁判をしている人だと、怒りの感情がなくなるのが困るからという理由で辞める人がいます」
裁判という言葉を聞いて、私も身構える。私も何回か考えたことがある。しかし、日本の司法はいまだに男性寄りの判決を下すし、時効もある。
「過去の記憶が思い出せなくなるというのは、完全に忘れるということですか?」
「全く忘れることにはなりません。起こった出来事なので、それは不可能です。ただ、気にならなくなるということです。他の普通の記憶、友達と遊んだこと、どこかに旅行に出かけたこと、そういう記憶と同列になる、というと分かりやすいでしょうか」
私は安堵した。もし、記憶がなくなってしまったら、これからの執筆活動に支障が出ると考えたからだ。そして、どの地点を終了とするかをよく考え、両手を膝の上で握りしめた。
「母に対して、堪えきれないほどの怒りを抑えられた時を治療の終了にしたいです」
私の答えを聞いて、カウンセラーはノートにペンを走らせた。会計のためカバンの中の財布に手を伸ばす。九十分で一万八千円。高額だが、何年間も投薬を続けてもよくならないのだから、仕方ない。せめて、保険が使えればいいのだが、日本ではカウンセリングは保険対象外である。しかし、治療の目標を母への怒りにしたのは自分でも意外だった。私の心の中で大きな場所を占有しているのは、兄でなく母なのだろう。そして、治療者とともに、治療の目標を立てたのも生まれて初めてだった。どんな病院に行っても、そんなものを立ててもらったことがない。しかし、治ることがない病気なら、治療の目標を立てるのは当たり前な気がする。薬の量がここまで少なくなったらとか、仕事に復帰できるようになるまで、など、目標があったほうが患者の側も頑張れるというものだ。
玄関のドアを開けて、外に出る。夏の蒸し暑い空気が体に押し寄せるが心の中は心地よかった。初めて、人に自分の話を聞いてもらった気がした。たくさんの医者や医療従事者、友人たちに自分の体験を話してきたが、こんなふうに聞いてもらったことがない。エレベーターに乗っている時に、ふと、自分に問いかける。母はなぜ、あのような母になったのだろう。自分の娘が兄から性虐待を受けても解決に導くのを諦め、暴力を振るう夫の元からも去ろうとせず、長いこと妻であり続けた。母の子供時代、学生時代、大人になってから父と出会うまで、母は何を考え、どうやって生きてきたのだろう。そして、母を取り巻く時代はどんな様相を呈していたのだろうか。それを知ることが母という謎を解き明かす道筋になり、私も救われることになるかも知れない。
現代の女性たちで自分の母親に悩まされている人は多い。私の個人的な苦悩が他の女性たちの解放に繋がるのなら、自分の苦しみと徹底的に向き合いたい。エレベーターのドアが開くと蒸した空気が体にまとわりつく。私は胸を張って歩き出した。まだ若い二十歳の娘のように。
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