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トオマス・マン『トニオ・クレエゲル』読書会 (2021.6 .18)

2021.6.18に行ったトオマス・マン『トニオ・クレエゲル』読書会のもようです。

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青空文庫 トオマス・マン『トニオ・クレエゲル』

朗読しました。


きみは読書なんてしない


私がトニオの立場だったら、食堂でのダンスパーティーをガラス扉の陰で覗き見するだろうか?


多分しないと思う。


ハンスとインゲの世界は、今世では自分と無縁だったということで、納得させると思う。

ショウペンハウエルやニーチェなどのドイツの哲学書を読んでいると、脱俗して芸術の世界に没入することが、人間として尊いように感じるが、それは、あまりに超人的な孤独の苦痛を伴うので、彼らを真似ようとすると、激痛で、思わず目眩がする。


私も学生時代にポエムを書いて、文芸誌に投稿したことがあるが、結局のところ、そんなのは、承認欲求以外の何物でもない。掲載されたとしてもポエムを理解してくれる友達など、ほぼいないし、掲載されたことを話しても、気味悪がられるのがオチである。

最近、自分に表現したいことなどあるのか、とつくづく思う。自分が生きている現実こそ、すでに自己表現であり、詩を書いたり、絵を描いたりしなくても、日々の自分の行動も、自覚がないだけで、作為に満ちている。その作為は、創作と言えるほど、意識的ではないだけだ。作為がない人間はいない。つまり、嘘をつかない人間はいない。嘘は、一つの自己表現だ。

(引用はじめ)

(内面的に他の人々よりもずっと窮している者は、多少の外面的愉楽を当然要求して差支えない、と彼はいつも言っていたからである) 岩波文庫P.72

(引用おわり)

私は、カントやショウペンハウエルのように、人生をかけて自分の哲学体系を、完成するというのは立派だと思うが、トオマス・マンのように大長編作品を書くというのは、あんまり、尊敬できない。書いているうちに、その苦痛ゆえに、性格が歪み、自己正当化が激しくなり、世間に向けて、結局、売れようが売れまいが、被害者ヅラしはじめる傾向がある。


小説は、なんか人騙し的な要素があり、胡散臭い。トニオのように自分の創作哲学みたいなものを展開して、俗人を遠巻きに非難するというのは、みっともない、と読み直して思う。


しかし。そのことは、作品内でちゃんと批判されている。リザベタさんが正しく指摘した通り、それこそ、俗人の行為である。


己が俗人だと気づいていない俗人のユーモア小説だと思って読めば、優れた小説だと思う。


つまり、トニオの絶望は、キルケゴールが『死に至る病』で喝破した、絶望を意識していない絶望かもしれない。


リザベタを前にした、トニオには、金を払って、サービスを受けておいてから風俗嬢に説教する殿方みたいな滑稽さがあった。


しかし、その滑稽さゆえに、トニオのことが気の毒で、彼の身になって読むほどに、哀しくなった。

(おわり)

読書会のもようです。




お志有難うございます。