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梶井基次郎『ある心の風景』読書会 (2021.6.11)
2021.6.11に行った梶井基次郎『ある心の風景』読書会のもようです。
私も書きました。
ある持続の中の風景
ベルグソンの哲学に『持続』という概念がある。
我々の自我は、糸巻きのように、外界の刺激、例えば視覚や、嗅覚、聴覚の刺激を巻き取っていく。それと同時に、自我は、すでに巻き取った刺激の記憶を、新しい刺激で、糸を解きほぐし、自我を染め直すかのようにアップーデートする。
このようにアップデートを重ねる自我の知覚と記憶の相互作用の運動をベルグソンは『持続』と名付けた。
本作では、喬の持続が、外界からの視覚的、聴覚的、嗅覚的刺激に応じて、その糸巻きのような自我に、風景の記憶を重ねていく様子が、細かく綴られている。たとえば火の見台に行くまでの他の客の視線、利休(下駄)の音、エスカルゴの匂い、こういった刺激に鋭く反応している持続のあり方が、痛々しいほど過敏である。
『街では自分は苦しい』
街に暮らす人間の自我は、雑多な刺激によって、常に気をそらされ、他人の情動にさらされ、世間の空気に支配され、持続を見失っている。なおさら、病気を患い、ぼんやりした意識だと、何かまとまりのない、活きの悪い魚の眼に映ったような灰色の視覚的刺激ばかりが、持続の中に巻き込まれていく。だから、苦しいのではないか。
しかし、高い気流に揺れる欅の梢や朝鮮の鈴の音の強い感覚的刺激は、ダイレクトに喬の持続である『身体の流れをめぐって』彼の生命力を昂揚させ、持続の中に彼を没入させていく。
(引用はじめ)
「ああこの気持」と喬は思った。「視ること、それはもうなにかなのだ。自分の魂の一部分あるいは全部がそれに乗り移ることなのだ」
喬はそんなことを思った。毎夜のように彼の坐る窓辺、その誘惑――病鬱や生活の苦渋が鎮められ、ある距(へだた)りをおいて眺められるものとなる心の不思議が、ここの高い欅の梢にも感じられるのだった。 (第四章)
そんな時朝鮮の鈴は、喬の心を顫わせて鳴った。ある時は、喬の現身(うつせみ)は道の上に失われ鈴の音だけが町を過るかと思われた。またある時それは腰のあたりに湧き出して、彼の身体の内部へ流れ入る澄み透った溪流のように思えた。それは身体を流れめぐって、病気に汚れた彼の血を、洗い清めてくれるのだ。
「俺はだんだん癒ってゆくぞ」
コロコロ、コロコロ、彼の小さな希望は深夜の空気を清らかに顫わせた。 (第五章)
(引用おわり)
持続に意識を集中して、その果てにある自己の魂を確かめようと、もがいている喬の焦燥感が、身に迫る作品だった。
(おわり)
読書会の模様です。
青空文庫
朗読しました。
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